判の兵庫 memo

一、 永禄 十 二 年 己 巳 の 歳 より 翌年 午 の 七月 まで、 天 に 煙 の 出る 星 出来す。 また、 信玄 公 三十 一 歳 の 時分 より 召し 置 る ゝ 江州 石 寺 の 博士、 昔 の 晴 明 が 流れ にて 易者 なり。 なかにも 判 を よく 占 ひ 申す に つき て 判 の 兵庫 と 名乗る。 余 の 占 ひ をも 正法 に 仕り、 内典・外典 ともに 携 はり、 邪気 なる こと 聊か も なけれ ば、 信濃 国 水 内 郡 において、 百貫 の 知行 永代 宛て 行 はる ゝ 御朱印 を 彼 判 兵庫 に 下さ れ ける。 この 兵庫 を 毘沙門堂 の 庫裏 まで 召し寄せ られ、 武藤 三河 守・下 曾禰 両人 を 問者 にて、 右 の 客星 吉凶 を 兵庫 に 占 はせ て 御覧 ずる に、 兵庫兵庫 心 静か に 占 ふて、 す なは ち 書付け を もつ て 申し 上 ぐる。「 抑 この 星 と 申す は、 天下 勿怪 の 星 なり。 しかしながら 只今 に 当たり、 何れ の 大名・高家 に 悪事 の 御座 ある べき にて あら ず。 これ は 末代 において 日本 の 古き 家 次第に 滅 し て、 終 には 悉く なくなり、 扶桑国 中、 武家 の 作法 を 取り 失ひ、 昨日 被官 かと 見れ ば 今日 は 主 になり、 女人 が 男 の 出で立ち を 仕 つり、 新しき 家 の だ ち て、 喩 へ ば 舞楽 に いたる まで 真 なる こと を 見知ら ず し て、 嘲り なる こと を 用 ふる 故、 本 侍 衆 まで 一世 の 間 に 二度、 三度 づゝ 作り 名字 を なさる ゝ 憂き 世 になり 申す べし。 侍 衆 ばかりの 儀 にて も なく、 仏法・世法 と ある 時 は、 寺方 にて も よく 久しき 宗旨 は 次第に 衰微 なさ れ、 新しき 宗旨 の 繁昌 あり。 百姓・町人・非人 までも かく の ごとし」 と 書き て、 右 の 武藤 殿・下 曾禰 殿 へ 渡す。「 さ 候 へ ば 数 なら ぬ 我等 躰 も 代々 判 を 占 ひ 来り 申し 候 間、 この 星 の 上 は 判 を 占 ひ 我等 までに 仕 つり、 子孫 を ば 素人 に いたさ ん。 まだ も 息子 の 儀 は 二十 に 抜群 余り申し 候 間、 これ は 時々 の 卜 致す とも、 孫 には 全く 占 ひ 止め させ 候。 幸 某 に 大僧正 信玄 公 大慈大悲 の 御 恵 を もつ て、 信濃 の 国 にて 御 知行 下さ れ 候 故、 年来 畜 はへ 候 物 を 譲り、 孫 を 素人 に 仕立て、 甲府 に あり 付け 申す べく 候。 我等 子 をも 孫 にか ゝ り、 これ も 甲府 に 罷り あれ」 とて 柳 小路 に 屋敷 を 申し 請け、 子 と 孫 を ば 町人 に 仕付け、 己 れ は 知行 を さし 上げ、 近江 国 へ 罷り のぼり、 五 年 目 に 死する と 聞く。


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