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ふにゃふにゃの唐揚げ


外はパリッと、中はジューシー
我が家の旦那さんと娘が好きな唐揚げの条件だ。

でも私は違う。
外はふにゃっと、中はジューシー
それが私の大好きな唐揚げの条件だ。
母が作る、めっちゃ庶民的な唐揚げだ。

…と前置きはしたものの、
私の母は、料理が下手くそ。
とてもじゃないけど褒められたもんじゃ
なかった。
  
輪ゴム入りのお味噌汁。
色々な素材をごちゃ混ぜにして、もったいない
オバケが出てきそうな、謎の和え物。
ほとんどソースの味がしない、ほぐれない麺の
ソース焼きそば。などなど…
  
今、思い返しても、残念なメニューしか思い
出せない、そんな母の手料理だった。
 
しかし、母はなぜか、レトルトをほとんど
使わなかった。全て一から手料理していた。
未だに、謎である。

その代表的な料理に、カレーライスが思い出
される。私は、カレーライスが美味しい食べものだと知ったのは、小学生になってから。ボンカレーを生まれて初めて食べた時の衝撃は、今でも脳裏に焼きついているほどだ。

母の作るカレーライスは、おたまをひっくり返してもカレールーが落ちてこない。
それぐらい重たく、ただ辛いだけで味がしない、そんなカレーライスだ。

そのため、私の味覚は、大人になるまで成長が
ストップしていた。

なんで、レトルトを使ってくれないんだろう..
何度、思ったことか。

頼むから、味見をしてくれ!何度、祈ったことか。でも、私の祈りは届かなった。

お陰で私は、学校の給食で一日のお腹を満たす
べく、毎回、おかわりをしていた。
モリモリ食べる優良児になった。

反面、家での食事は、ご飯とお味噌汁で何とか
お腹を膨らませ、食べるというより摂取していた感じだった。

そんな料理下手な母にも、美味しい!と思える
料理があった。唐揚げ、餃子、ニラ玉炒め..
この3品!あと、ヨーグルトケーキも!

その影響なのか、私はオバサンになった今でも、その4品が大好物だ。後は、食べれる味か?
そうでないか?に分けられた。

特に唐揚げは、イチバンの大好物だ!

母の作る唐揚げは、醤油、酒、生姜で漬け込み、卵、小麦粉を混ぜ合わせて揚げるだけ。いたってシンプル。

でも調味料も揚げ方も絶妙で、病みつきになった。他の料理は作らなくていい!唐揚げだけ毎日作ってくれー!と、いつも思っていた。


母が料理下手には理由があった。
母は心がいつも不安定だった。子供の頃の私は
知る由もなかった。今になって分かることだ。

夫婦関係、経営している会社の借金..いつもストレスを溜め込んでいた。そんな心情では、料理を美味しく作れるはずもない。

バブルが崩壊して、小さな町工場を経営している我が家にも、不況の波が押し寄せた。母は毎月、借金の返済に奔走していた。
私が外で稼いだお金も、借金返済につぎ込まれていった。

そして、母に病魔が襲った。乳ガンだ。かなり進行していた。それでも母は、会社を守るべく金策に余念がなかった。


母が命を懸けて守り抜いた会社も、ついに倒産を迎えた。

弁護士さんの指示で、私一人東京に残り、両親と兄は千葉へ引っ越した。どんな債権者がいるのかも分からないから、千葉へはしばらく行かないように!とまで言われていた。

当時、職場の上司から借金をして、私は急いで
アパートに引越しをした。東京で1ルームの
アパート暮らしは、ドラマに出てくるような、
夢と希望に満ちたものではなかった。

テレビと冷蔵庫、洗濯機は、ちょうど引越しを
考えていた知人から格安で譲り受けた。

その一式が届くまで、しばらくの間、布団ぐらいしかなかった味気ないアパートに、私はとりあえずの生活を送っていた。

しばらくして、千葉から兄がアパートを訪ねて
きた。

特に用事があった訳でもないが、母が私に持って行って欲しいと、兄に頼んだものを届けに来て
くれた。

兄から受け取り中を覗くと、そこには、ふにゃふにゃの唐揚げが、容器いっぱいに敷き詰められていた。

3人兄弟で末っ子の私は、いつも唐揚げ争奪戦に完敗を期していた。そんな私が、こんなに母の
唐揚げを独り占めできる日が来るなんて..

その頃の母の左腕は、リンパ浮腫により肥大化していた。そのため、ほとんど左腕は機能していなかった。右腕だけで唐揚げを作るなんて、相当な労力だったろうに..

それでも母は、私にふにゃふにゃの唐揚げを作って、兄に持たせてくれた。私の大好物だと知っていたからだ。ただ、それだけのために、兄をわざわざ千葉からよこすなんて..笑っちゃうな。

しかし、まだこのアパートには、冷蔵庫がない。アパートに射し込む西陽は、汗をかき始めた5月でも暑さが増した。

保冷剤が入っていない状態で千葉からやって来たその唐揚げは、どう考えても翌日まで持ちそうになかった。

兄に「私一人じゃ食べきれないよ。食べる?」と尋ねると、「いや、お母さんが、のりこにって言って作ったものだから、俺はいいよ。」と答えた。

私は学校の給食を毎日おかわりするぐらいの食いしん坊だ!よしっ、全部食べるか!と気合いを
いれて、私はふにゃふにゃの唐揚げをパクっと
食べ始めた。

うん、やっぱり美味しい!左腕が不自由になってから、唐揚げは作れなかったはずなのに、あの料理下手の母が作ったとは思えないほど、味付けも揚げ方も、私好みの絶妙さだった。

私は黙々と食べていった。いつもはおしゃべりな私も、ひとこと「おいしい..」が精一杯だった。
あんなに大人しく唐揚げを食べたのは、後にも先にもこの日だけだった。

私の大好きな唐揚げが、涙でだんだん味が分からなくなってきた。もうお腹いっぱいなのに、それでも絶対に残したくなかった。
きっと、これが最後の唐揚げになるのが分かっていたからだ。

ふにゃふにゃの唐揚げを食べながら、私は心の中で「お母さんは生き抜こうとしている!だから私も力強く生きてやる!」そう誓った。

そのパワーをふにゃふにゃの唐揚げから、お腹いっぱいもらった。

翌年、母は天へと旅立った。
それから7年後、私も結婚をして娘を授かった。

料理も人並みにはできるようになった。お袋の味は伝授されなかったけれど、自分なりにSNSを見て研究している。がんばれ!ワタシ!

旦那さんも娘も、母を知らない。
そして、ふにゃふにゃの唐揚げも食べたことが
ない。

おばあちゃんの話を娘にする時、必ずと言って
いいほど、母の料理下手が話のネタに上がって
くる。そして、ふにゃふにゃの唐揚げがママの
大好物だということも。

外はパリッと、中はジューシー
我が家の旦那さんと娘が好きな唐揚げの条件だ。

でも私は違う。
外はふにゃっと、中はジューシー
それが私の大好きな唐揚げの条件だ。

ついでに、料理人は天国の母であるということも
付け加えておこうかな。


涙の味がする、ふにゃふにゃの唐揚げ。
今でも味や触感を憶えている。

お母さん、今日も私は、元気で生き抜いているよ!

#元気をもらったあの食事

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