見出し画像

リアルどくだみ荘のショボい奴ら  弐

米屋事件の主犯格(バーテンダーの弟)は、俺に輪をかけたショボい奴だった。

 以前の話で取り上げたバーテンダーの兄貴は、当時の名古屋でも指折りの遊び人だったため、あちらの音楽や、ファッション情報の多くは、兄貴から弟経由で仲間内に広がった。やはり身内に遊び人を持つとその時代のトレンドをいち早く知ることができたし、感化され同じジャンルに興味を持つパターンが多く見られた。

 この兄ちゃん、当時1番敷居の高かったディスコ(クラブの以前の総称、そんなこたーいわれるまでもねーか?)のDJで、周りからは、本名ではなく愛称で呼ばれていた。(○○○ンゲリオンの○○○部分)今ではエアコン工事を生業にして見えると風の噂に聞いたが元気にしておられるだろうか?

 さてここからが本番なのだが、いちいちめんどくせーんで弟の名を、ここではクロとしておくことにするが、クロは、国語の成績は相当なものだったが、事、理数系に関しては聞くに堪えない内容だった。連立方程式が現れてから奴の答案に,点数らしい点数が採点されているのを見たことがない。かく言う自分も似たり寄ったりだったのが実際のところだ。

 例えば国語などのぶ厚めの教科書は、勉強を覚えるためのものというよりもパラパラ漫画のノート代わりに使われる需要が勝っていた。そしてプラスチック消しゴムはといえば、小刀でオブジェを作る材料であり、本来の目的を果たさず闇に葬られる運命にあった。当時一番もてはやされた下腹部の、男の勲章の作品展は、各自が独特の着色を試み、最早芸術の域にまで達する作品が幾つかみられるほどだ。

 しかし残念なことに、担任の若い女の先生に見つかり、烈火の如き怒りを浴びせられ焼却炉で火葬の憂れき目を見た。火葬したことで成仏してくれたことを祈りたい。

 奴は本当にくだらんことはよく知っていたし、何故か人を引き寄せる特殊な才能を持ち合わせていた。その一つが「どおくまん」という漫画家とのエピソードである。「どおくまん」の名前に聞き覚えがないだろうか?「嗚呼花の応援団」青田赤道という名の主人公が大学の応援団で繰り広げるドタバタコメディと言えばなんとなく思い出される方もお見えかもしれない。一応映画化されたほどなので当時はかなりの読者を集めた漫画だ。

 そんなどおくまんの初期の作品に花田秀次郎君シリーズという漫画があった。「別冊少年ジャンプ」だったか?昔は漫画は週刊と月刊が発行部数を二分していて、単発もので新人漫画家が鎬を削る場が月間漫画だったと記憶する。

 花田秀次郎くん浮気す、とか

 花田秀次郎くん剣道す、とか色々続いたが、毎回抱腹絶倒、少しエッチで意味不明な内容に俺とクロは虜になった。思い入れの激しい奴は、住所を探し出して長々としたファンレターを送った。国語だけは非凡な才能を発揮するクロの文才が、この一件にも大いに発揮された。

 そしてその次の正月から数年に渡り、クロが書くわけでもないのにどおくまんの方から、直接クロ宛に直筆の年賀状が届いた。大きく「どおくまん」とだけひらがなで書かれたものだったり、キャラクターの花田秀次郎が書かれたものだったり、どおくまん本人が、売れない新人の頃に、クロからもらったファンレターに余程感激したに違いなかろう。「どおくまん」絶頂期に、なんでも鑑定団にでも出していれば、そこそこの値段がついたかもしれない。

 そしてもうひとつ、俺達はブームに乗っかり19の夏からサーフィンを始めた、間もなくその楽しさにはまり、役5〜6年の間は、夏冬問わず日曜は海へ通った。もうすでにサーフィンは、愛知県でもメジャーなスポーツで、毎年3月にプロアマ混合のメジャーなコンテストが、開催された。伊良湖オープンと呼ばれたそのコンテストには毎年数名、湘南や千葉のトップクラスのプロサーファーやアマチュアサーファーも参加した。

 確か始めた次の年の3月だったと記憶するのだが、その年の伊良湖オープンは、春一番と重なってこの時期にしては珍しく大きな波が打ち寄せ、会場の赤羽根ロングビーチは大盛り上がりを見せた。今となればもう時効だろうから実名をだすと、DOVEというウェットスーツメーカーの戸倉康守氏が、添田道博道というその年の、賞金獲得ランキング日本1のプロサーファーほか数名を引き連れて参加した時があった。

 やはり日本のトップは、次元が違っていた。名だたるプロやアマチュアサーファーが、沖へ出ることさえままならないサイズの波を、予選から華麗に乗りこなして、添田プロはギャラリーの喝采を浴びた。1本波に乗るとその位置から沖へ出ることはほぼ不可能に近い海の状況だったため、添田プロ以外の全員は一旦海から上がりカレントと呼ばれる岸から沖へ向かう潮の流れがある場所まで走って戻って再び沖へと向かったのだが、無謀にも彼だけは、トッププロの意地からかその場から沖を目指した、案の定力尽きて彼は自分のヒートを終えた。その瞬間に彼の予選敗退は、決定づけられた訳だが、最後の表彰式で急遽彼の為に作られたようなベストライディング賞に輝き表彰されていた。ジャッジの戸倉氏の圧力が働いたことが見え見えの出来事であった。ちなみにこの日の戸倉氏の出で立ちは、田舎の海にも拘らず、カーキ色のトレンチコートに、黒のボストングラスという流石湘南ボーイという、いい意味でいえば出色の、悪い意味でいえば場違いなイケてる服装だった。

 賞金が掛かったコンテストの為、大会の運営資金捻出の意味合いも込め、出場選手にまあまあ大金の参加料が課せられていた。俺とクロも主宰者の地元サーフショップの店員の強制で、頭数揃えと、賞金の補てん目的だけで参加させられたのだった。宝くじの1等を引き当てるよりも入賞の可能性の薄いコンテストへの参加は、一度も沖に出ることさえままならず予選敗退し、周りの失笑を買った。

帰りがけにクロは、俺を出し抜いて一人添田プロにサインを求め、急遽用意したとみられるへんてこな紙の裏に、マジックで添田の名前と自分の名前を書いてもらっていた。添田プロは満面の笑みを浮かべてサインに応じてくれたらしい。自慢げに俺のもとに現れ、サインを見せびらかした俺の目に、EIGI君への文字が飛び込んできた。もうお分かりの方もおられると思うが奴の本名は、EIJIであってEIGIではない。そのことを彼に優しく告げてやった瞬間奴は、地団太を踏んでその場に突っ伏したのであった。(ほんとかよ)余りの笑劇に言葉を失いながら俺は奴に、「書き直してもらって来いよ」とアドバイスを授けたのだが、奴はそれに従うことなくサインを車に押し込んだのだった。それ以来添田プロのサインにお目にかかったことは無いし、他のショボい奴らにサインを自慢するクロの姿を見たためしもない。

 クロの与太話はまだまだ続く。バーテンダーの兄貴にはまた次回御登場願う事とする。良しなに

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?