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チバユウスケという私の人生を変えてくれたバンドマン


12月5日。
私は朝一番で映画を観に行っていた。
「楽しかったなあ」と余韻に浸り、近所のラーメン屋さんで料理が運ばれてくるのを待ちながらSNSを覗くと、トレンドワードに「チバユウスケ」の文字。そのトレンドをタップすると
チバユウスケが亡くなった
という、ニュースが飛び込んできた。

頭が真っ白になった。スマホを持つ手は次第に震えてきた。
その知らせの意味は理解できたが、頭の中で整理ができなかった。

せっかく頼んだラーメンと餃子のセットの味は、分からなかった。

正直、訃報が出てから「私なんかがチバを偲ぶことはおこがましいことなのではないか」とずっと思ってしまい、ライブのエピソードを思い出すことさえも罪悪感を感じていた。
でも、私の今の生活があるのはチバの存在も大きく関わっているのだ。
チバのキャリアからすると私なんかとんでもなくニワカであるが、やっと気持ちの整理をしたくなってきたのでだらだらとここに綴ってみようと思う。

私がチバユウスケの音楽に初めて触れたのは高校生の時。
当時私は2000年代の所謂「ロキノン系」バンドのいくつかにハマり、バイト代が入ればライブにそのほとんどをつぎ込む典型的なロキノン厨(今でもこの言葉を使うのだろうか)であった。
バイト中、客足が途切れ生鮮パックを入れる用の袋をしこしこと作っていた時、当時バンドマンだった先輩がふと私に言った。

「バンド好きなら、チバユウスケと浅井健一は通らないと人生損する。」
「どっちもめちゃくちゃイケてる音楽だよ。」

先輩曰く「チバの声はすごい。ドラゴンボイスって感じ」と。
興味がわいた私はその翌日の学校帰り、レンタルショップに向かいTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTのCDを片っ端から借りた。
衝撃だった。
しかしその時2007年。ミッシェルはすでに解散していた。
非常に残念だと思いながら、そしてThe Birthdayの存在を知りながら、なんとなくライブには足を運ばずにその当時最高にハマっていたバンドのライブに通い続けていた。当時のバースデイの箱のキャパの小ささもあって怖かったのかな。なんてもったいなかったのだろうと今になって思う。

2009年。都内の短大に進み、私のライブに通う頻度はさらに増えていた。
学校以外に生まれた交友関係はほどんどすべてバンド関連のものであった。
しかし、2009年。アベフトシが亡くなった年。
前述の通り、一度も彼を生で観られていなかったが、アベの訃報も非常に辛かった。直後に行ったロックインジャパンフェスの会場内でミッシェルの音楽を耳にしては悲しさが込みあがった。

あぁ、これは一度チバの歌を生で聴きたい。
そう思いつき、やっとTheBirthadyのチケットを確保した。
「愛でぬりつぶせ」ツアー 
今はなきZEPP TOKYO。

当時のmixiの日記の引用。
>これからチバとキュウ、イマイにハルキが観れるのか!と思うと始まる前なのにドキドキして、ライブ中死ぬんじゃないかって思った。始まってメンバーが出てきたときなんか心臓飛び出んじゃないかってくらい。笑
ツアータイトルにもなった"愛でぬりつぶせ"から始まる。もう、イントロのAコードが聴こえた瞬間、鳥肌立った。チバの声、鼓膜を撃ち抜くんじゃないかってくらい通る。キュウのドラムも骨に響くくらい力強くて、ハルキのベースもイマイのギターもライブ映像で観る以上に格好良かった。"マスカレード"のチバの叫びが気持ちいい。

いかにも大2病がしたためるライブレポートである。
しかしこのライブで私はすっかりバースデイの、チバの虜となった。
直後にはラストヘヴンのフィルムライブにも行った。チケットを譲ってくれたあの男の人は、元気だろうか。
それからしばらく、友人とツアーの東京と横浜やいけるイベントにに通った。
STAR BLOWSのツアーでキュウちゃんのダイブの下敷きになったことは今でも宝物です。左腕に体重かかってしまってごめんなさい。

2011年。東日本大震災の年。
夫と付き合い始めたはいいが、いまいち会話が盛り上がらず、とんでもないメンヘラ彼女履歴であった主人は付き合い始めに「俺、君のことに興味ないから」と今考えるととんでもねえモラハラになりかねない予防線を張られていたため会話がほとんどなかった。なんで付き合い続けていたんだろうってくらいに。
私が色々なバンドにハマっていることは知っていたので、夫は私にこう質問を投げてきた。
「ギターがジャカジャカ鳴ってる格好いいバンドはいないの?」
私は少し考えて、1曲を紹介した。「I'm Just a dog」の「SとR」だ。
当時の私はとても冴えていたと思う。この1曲がきっかけとなり、夫もThe Birthdayにハマり、一緒にライブに行き始めた。
その後夫は他のロックバンドにもハマり、バースデイ以外のライブにも行くようになった。
多分、SとR以外の曲を勧めていたらこうして夫と結婚することも、子供を持つこともなかったのではないかと思っている。

子供が産まれるまで、本当にギリギリまでバースデイのライブには行っていた。「ダイナミック胎教」とかほざきながらつわりで嘔気が強くても行った。
子供が産まれてから、コロナ禍になってからはどんどん足が遠ざかってしまった。
最後に生でチバを見たのは2017年の横浜BAYHALL。
ライブに行ける機会は作ろうと思えば作れたはずだった。

フジファブリックの志村正彦が亡くなった時も、後悔はしたくないから、行けるときはどんどんライブへ行こうと強く思っていたはずなのに。
また、後悔で心がいっぱいになってしまった。

今年の春先にチバが癌であることが公表されてから、ほとんどバースデイの曲を聴けずにいる。
おまけに、チバの写真、特にライブフォトが目に入った時には途端に涙腺が緩くなって泣きそうになったり、泣いてしまったりしている。
それでも思い出すのは、薄暗い煙たいステージの上で耳がおかしくなるほどの声でがなり、踊り、酒を飲み、たばこをふかすあの細いシルエット。
家路をたどる時のあの耳鳴りはとても心地よかった。
もう生で体感することも叶わなくなってしまったけれども、あの感覚はいつでも思い出せるように大切に覚えていたい。

私は職業柄、様々な癌の方に出会い、様々な終末期を見てきている。
彼が、少しでも穏やかに過ごせていたのなら、少し救われる。
これを書くと私の中で本当に過去の人となってしまう気がして辛いが、今日まで一度も言えなかった。

お疲れさまでした。あなたの声と音楽、屈託のない笑顔はいつまでも忘れません。どうかそちらでもグレッチをかき鳴らして歌っていたください。

こんなにだらだら書いていて、何か一つでも推せる人ものがある人には私は何度でも言うし、仕事だって変わってあげたい。

「推しは、推せるうちに推せ」

誰だって、生きていること、元気であることが当たり前ではないのである。


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