見出し画像

支援は最初から、暴力と毒にまみれている 〜渋谷区児童養護施設殺人事件から、改めて〜

昨日、渋谷区の児童養護施設で、46歳の施設長が刺殺された。報道によれば、容疑者は22歳の男性。15歳から18歳までを過ごした施設に恨みがあったと伝えられている。

亡くなった施設長や、施設を運営している団体の責任者には、私はお目にかかったことがない。しかし、社会福祉の世界は狭い。お2人とも、私が直接の面識や交流を持っている方々と、直接のお付き合いがある。どこからも、悪い評判は聞いたことがない。人間に「裏表」はつきものだが、激しい裏表も耳にしない。おそらく極めて良心的に、施設の運営や子どもたちの養育に当たっていたのだろう。少なくとも、今はそう信じる。

この殺人事件の詳細は、まだ全く分かっていない。容疑者の背景も、動機と伝えられる施設への恨みの内容も、実のところ全く分からない。

何もかも分からない現在、児童福祉に限らず、一般論として言えることがある。それは、「支援には暴力と毒が含まれている」ということだ。暴力と毒を、支援から取り除くことはできない。発動させないことは出来るかもしれないけれども。

「支援するー支援される」という関係は、少なくともその場面と瞬間において、「支援することが出来るー支援を必要としている」という立場の差を前提としている。いま、切実に支援を必要としている側は、心の中に反発や抵抗を覚えていても、それを示すことが実質的に不可能だ。

支援される側が何らかの形で反発や抵抗を表明したら、「じゃ、支援しない」「私たちの支援から去ってください」ということになりかねない。その表明は、ボランタリー(自発的)な支援者の「支援しよう」という気持ちを挫く場合がある。少なくとも、支援者は喜びを感じない(感じるのなら、共依存を警戒するべき)。

福祉事務所や支援団体の職員として、報酬を得て職務として支援を行っている場合も、この事情はあまり変わらない。「困難ケース」「信頼関係を構築することが難しいケース」として、なんとなく、より緊急性が高く、かつ気持ちの抵抗は少ない支援へと向かいがちだ。そして、支援される側の反発や抵抗は忘れられる。忘れた頃に関係修復の機会が訪れるかもしれないが、忘れてそれまでになってしまうこともある。

結局のところ、支援される側には、「良い子ちゃん」「されるがまま」「無言」といった選択肢しかない。「良い子ちゃん」のバリエーションとして、支援する側に「私の支援に対して、時に反発や抵抗も示すけれども、心を開いてわかり合って信頼関係を強めてこれた」という満足感を差し上げるといったものもある。支援の対価を感情労働で支払っているわけだ。

「赤字」「黒字」で考えると明快だ。赤字超過が延々と続く状況に、いつまでもどこまでも耐えられるわけではない。経済基盤の脆弱なボランティアの場合には、そうなりやすい。しかし、金銭的な黒字化が困難であるとしても、「やっててよかった」という感情、「すばらしい活動」という賞賛によって、心の帳簿を「トントン」にすることは出来る。

いずれも得られない場合にも、支援される側から報酬を受けることはできる。まず、感謝は無条件に得られるものと期待されやすい。満面の笑顔や嬉し涙とともに示されれば、言うことはない。支援される側は、本心からそうしているのかもしれないが、内心「けっ」と思いながら期待に応えているのかもしれない。支援される側に回る場面の多い人生を歩いていた人々は、しばしば、他人の感情を読む能力が極めて高い。感情を読んで、その後どういう言動に移すかは、その人次第だ。善意だけは溢れている隙だらけの支援者の期待は、120%満足させられるかもしれないが、隙を突かれて再起不能にされるかもしれない。付け込まれて搾取されて放り出されるかもしれないし、黙って逃げ去られるかもしれない。いずれにしても、支援する側は何らかの感情的対価を受け取ることができる。少なくとも「支援しようとした私」に満足することはできる。

支援される側が見ている風景は、まったく異なる。差し出される食事や品物や金銭、あるいは直接の対人援助の背後に、巨大な暴力と強力な毒がある。その暴力と毒は、今は厳封され、自分とは逆の方向に向けられていたりするかもしれない。でも、存在する。だから、暴力と毒が自分に向かう可能性に注意しながら、必要な支援を受け取る。そして、感情労働によって差し出せる対価があるなら、差し出すかもしれない。暴力と毒を自分に向かわせないために。

このような対応は、大人に限らず、4歳や5歳の子どもに見られる場合もある。子どもなら「可愛げがない」ということになるだろう。大人でも、女性や知的障害者は「可愛げ」「素直さ」といった特性を求められる場合は少なくない。この数年、明示的に求めることは差別であることへの認識が進み、支援を職業とする人々からは若干減ってきた印象がある。しかし、暗黙に求められていることに気づいて応じない場合、何らかのイジメ、搾取、虐待などに発展する。だから、気づいていることを表明するどうかはともあれ、相手の求めに応じないわけにはいかない。せめて最小限に、最も効率的に、我が心身の消耗を最低限に抑えて。それが出来ないのなら、その人は、支援される側にいることの多い人生を生き延びて来れなかったはずた。

ともあれ、その人は賢明だったから生き延びて、今、そこにいる。その賢明さには、悪知恵も狡猾さも立ち回りも含まれているかもしれないけれども。

その人は、生まれ育ち暮らす中で、必要な何かを欠いてきた。だから今、支援を必要としている。本来なら与えられるべきものを与えられなかった故に、弱さや欠落を抱えている。だから、必要な支援を得る必要はあるが、支援が内包する暴力や毒に致命的なダメージを負わされないようにする必要もある。痛めつけられて強制的に学習させられることを繰り返し、賢明になってきているけれど、まだ不十分なのかもしれない。社会的弱者であるとは、そういうことなのだ。

支援する側が、支援の暴力と毒を発動させないための唯一の方法は、最初から支援しないことである。または、支援を必要とする人に近寄らないことである。一つのコミュニティに外から近づけないことは、もしかすると可能かもしれない。

しかしながら私たちの世界は、「老い」「病」という形で、支援の必要性を内側から生み出し続けている。誰もが支援されないということは、誰もが排除されるということだ。誰もいない世界でなら、支援はなく、したがって暴力と毒は発動されないだろう。私たちの社会が目指すべきものは、人類滅亡なのか? それは正解の一つかもしれないが、とりあえず、他の解を探すことにしよう。

支援が含む暴力と毒に自覚的な人々は、既に数多く存在する。支援の暴力は、支援されていたはずの人々のパワーとなることもある。毒は、スパイスや触媒として好ましい働きをすることもある。組織や団体やコミュニティや個人の活動を、そのような方向性に向けようとする努力は、既に払われている。しかし、未だ充分ではない。「これで充分」という日は、人間が社会を作って支援したりされたりしている限り、おそらく永遠に来ない。

渋谷区の児童養護施設は、支援が含む暴力や毒に自覚的であったはずだ。宿命ともいえる問題の数々を折り込んだ上で、施設とスタッフは、運営と子どもたちの養育とその後に、最善を尽くしていたはずだ。少なくとも今、私はそう信じる。

殺人事件の詳細は未だ不明だ。今後も、詳細不明のままで良いのかもしれない。本質はおそらく、容疑者の22年間の歩みや施設内での経験ではなく、警備体制の不備でもない。支援という営みそのものだ。

支援が含む暴力と毒には、いつでも発動する可能性がある。どれほど配慮を尽くしても、可能性をゼロにすることはできない。さらに容疑者が施設を退所した後は、誰にも把握しようのない外界からの暴力と毒にさらされていたはずだ。もしも、生活の多くの部分に関わって支援する人がいれば、外界からの新しい毒は、支援の毒によって制されたかもしれない。しかし容疑者に、その幸運はなかった。そして蓄積された暴力と毒は、昨日、最悪に近い形で発動してしまった。このことこそが、事件の本質であろう。

支援は危険。なぜなら、支援を暴力や毒から切り離すことはできないから。しかし、危険だからといって避けて通ることはできない。たとえ「私はエゴイストだから、支援なんか一生しない」と割り切ってしまうつもりでも、自分が弱者になって支援され、その暴力や毒を含む危険物にさらされることになるかもしれない。結局、支援から逃げ切ることは、誰にもできないのだ。

あなた自身の心身から誰かに向けて発せられる支援の暴力と毒は、いつか、あなた自身にふりかかる。少なくとも、その可能性がある。

だから、あなたの目の前に誰かがいて「自分はこの人を支援できるかもしれない」と思うとき、どうか自問してほしい。「私の中にある暴力と毒を、私は受け止める覚悟があるのか?」と。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。