見出し画像

カッパ巻きに表れる、「みんな違ってみんな良い」が理解できる日は遠い

こんにちは、みゆです。
わたしの滞在しているところは本日雪予報です。どうりで昨晩から冷え込んでいたわけです。朝から予報通りしんしんと雪が降り続いています。さむい

今日は、はっとさせられたことについて書き留めたいと思います。

先日アメリカのとあるお寿司屋さんに行ったときのこと。そこは日本人のオーナーさんが切り盛りされていらっしゃるアットホームなお寿司屋さんで、オーナーさんの他にもアメリカの男の子が何人か包丁を握っています。

そのオーナーさんとお寿司についてお話ししていたときのことです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

オーナー「この子(アメリカ人の板前さん)はカッパ巻きが同じ長さに切ることができないんですよ。」

私「そうなんですね、同じ大きさに切るの難しいですよね。私もいつも同じサイズに切ろうと思ってもぴったりにするのが難しくて・・」

...確かに難しいと思っていましたし、もはや私には均等感覚がないのかも知れないとさえ感じていたのでそう答えたのですが、論点はそこではありませんでした。

オーナー「違うんですよ、彼らはこちら(長さがばらばらのカッパ巻き)の方が良いと言うんです。」

私「???」

オーナー「同じ大きさに揃えることが綺麗なこと、いいことと感じていないんです。」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私にとってはきっちりと同じ大きさに揃えられた物のほうが綺麗だと感じるし、小さなころから整えたり揃えたりするように言われてきました。しかし彼らにとっては色々な形があっておもしろい、とかそんな風にみえているようです。

どちらがよくてどちらが悪いという事ではありませんが、あくまでも日本の伝統的なお寿司の提供の場合は、個人の主観ではなく日本の伝統的な考え方なども踏襲すべきだとは思います。

けれども、彼らの感性こそが、多様な文化を受け入れる考え方の一つなのかもしれません。

協調性、同調性、そう言ったものに対して私が感じる安心感の根底には、小さな時から今に至るまで日本文化の中で積み重ねて学んできたお宝が眠っているんだろうなと感じたのです。

日本人が日本人として作り上げてきた沢山の文化や伝統、誇りや大和魂。

詳しく勉強してきたわけでもないけれど、そんな先人たちの思いが少しでも自分の中にも少しでも眠っているのだと想像したら、まるで自分がとても尊いもののように感じたのです。

昨今の日本はおかしいと言われている中、改めて日本の良さをもっと学びたいと思った出来事でした。

我が宿に 咲ける藤波 立ち返り すぎがてにのみ 人の見るらむ

なぜかふと思い出した歌。

今日も一日、お疲れ様でした。
明日も一日笑顔溢れる一日に成りますように。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?