見出し画像

ビートルズ旋風のあと日本の若者をアツくしたGSブームとhondaのチビ(1967年の日本車)

カローラ、サニーが大衆車の両雄としてマイカーブームを牽引し始めた1967年・・・・ミニスカートの女王こと、モデルのツイッギーが来日するや日本中の女性のスカート丈が短くなり始めたのがこの頃。ビートルズの影響を受けたグループサウンズブームが日本にも広まり始めていた頃です。

トヨタがそのルーツ=豊田佐吉の生誕100年にあやかって発売した最高級車がセンチュリー(VG20)。既に日産にはプレジデントという3ナンバー専用車があり、遅ればせながらトヨタも幅広クラウンにⅤ8エンジンを載せたクラウン・エイト(VG10)から専用ボディを持つ堂々の大型セダンにステップアップします。

それまでの最上級=クラウンも3代目にフルチェンジ、その計器盤はそれまでの国産車には無い特徴を備えていました。それはなぜか?アメリカでは社会運動家ラルフ・ネーダーが著書『Unsafe at any speed』で訴えた自動車安全の機運が高まりを見せ、各種安全基準が厳しくなる一方。乗員の安全にかかわる室内装備にも大幅な刷新が求められるものとなり、3代目クラウンはいち早くこの基準を先取りしたものだったのです。メーターを覆うガラスは無反射式の樹脂製に。スイッチ類は柔らかい素材でカバーされていて、ルームミラーは強い衝撃を受けた際には外れる仕掛けでした。計器盤を包む柔らかなクラッシュ・パッドがドライバーの前に広がり、ドア開閉の室内ハンドルも突起のない埋め込み式のデザインに。そして、前席には大きな安全枕(ヘッドレスト)が装備されるようになります。これは追突事故によるむち打ち症を防ぐ装備でした。シートベルトと併せて数年後には日本国内でも義務化される安全装備です。

このクラウンは販売戦略でも大変身を遂げ、「白いクラウン」のキャッチフレーズで個人所有のオーナーに強くアピールしました。そのクラウンの6気筒エンジンを大改造してツインカム・ヘッド、高出力エンジンに仕立て直した3M型はトヨタ2000GTという名の超高級スポーツカーの心臓となり国産車随一の性能を誇ります。連続高速走行の世界記録を幾つも更新しレースでも国内で開催の24時間耐久レースを制しています。2000GTには4気筒1600の弟分も生まれ、コロナハードトップにツインカムエンジンを載せたトヨタ1600GTも誕生しています。2000GTの半額以下、とはいえクラウンよりはお高い買い物でした。

一挙に10年も時代を先取りしたようなデザインのクルマがマツダからもリリースされました。世界初の2ローター実用エンジンを載せたコスモスポーツ。日本車の歴史にロータリーエンジンが加わった記念すべき一台です。往復するピストンエンジンよりも小型で同党の馬力が出せて、回転もなめらか。スポーツカー・エンジンには最適の逸材です。この年最初のモデルチェンジを経た2代目ファミリアにも後にこのロータリーエンジンが搭載され、ロータリーの大衆化路線が始まることになるのです。

さらには当時乗用車も生産していた老舗いすゞが発表した117クーペも注目を集めました。美しいファーストバックの4座クーペは居住空間を確保したうえで優美なイタリアンテイストのデザインで注目を集めます。デザインの主はマツダルーチェ同様、若き日のジウジアーロ。母体は同時開発されていた4ドアセダンのフローリアンですが当初の名称は117セダンが候補だったとか。117クーペの方は1600でツインカム武装した強力版。生産ラインに乗るまではハンドメイドに近い生産体制がとられ、価格も飛びぬけて高いものでした。

トヨタ2000GTもコスモも117も当時のクラウンが2台は買えるか、という高価格車で、なかなか市中には出回らなかった代物。今頃になって億単位のプライス・タグも見かけますが、当時の価格ですらとても開発費用をペイしたとは思えません。商売抜きで会社のイメージアップを図る、走る広告そのものだった、と解釈するしかないでしょう。

安全装備で大きく姿を変えたのは輸入車のトップセラー、フォルクスワーゲンかぶと虫も同様。ドアハンドルが埋め込まれ、分厚い安全バンパーや大型のランプ類など外見からも新型とわかる仕様変更が数多く、それ以前のモデルとは一線を画しています。

一方、トヨタにしろ日産にしろ会社に多大な利益をもたらすのは量販車。大衆車がベストセラーの座をほしいままにするまではコロナ、ブルーバードが販売合戦の主軸でした。その一方の雄ブルーバードがこの年510系にモデルチェンジします。イタリアン・デザインを採りながらも尻下がりのスタイルが不評を買った先代410系を刷新した日産快心の作です。エンジンは高出力のOHCバルブでコロナ1500より200cc劣る排気量のハンデを埋め合わせます。足回りにフロント・ストラット、リアにセミ・トレーリング式を採用したのはプロペラ・シャフトが大きく振れないようデフギアを固定してフロアトンネルを小さく、室内空間を広げることができる独立サスの採用が主眼だったようです。

このブルーバード、運転席脇の三角窓がありません。換気を補うのは強制ベンチレーションというヒーターのモーターを流用したもの。吹き出し口が計器盤の両脇に備わるようになり、これも国産車のデザインを変える嚆矢となったものです。(クラウンにも一部車種で採用が始まっています)

そもそもこの510、三角窓のないシャープなスタイリングも4輪独立のサスペンションもプリンス自動車で開発途上だった新型上級車のノウハウを先行投入したものでした。510より遅れて日産ローレルとしてデビューします。ブルーバードより上級の顧客層を狙って、というよりセドリックを販売する日産モーター店の量販車種として顧客を増やすことが特命でした。ライトバンや営業用のスタンダードを持たない、ハイクラスのセダンとして異彩を放っています。

売れ筋と言えば軽自動車界に突如現れたホンダの新顔,N360のヒットも会社にとって大きなマイル・ストーンとなります。31万円と低価格なのに31馬力のOHC高出力エンジン。排気ガスからは安っぽい燃え残りのオイルの白煙など上がりません。リアにトランクのない英国ミニに倣った2ボックス・スタイルを日本に定着させた功績も忘れることができません。ホンダが4輪メーカーとして乗用車生産に本格参入したのがこのℕでした。

軽の老舗としてスバルと並ぶ歴史を持つスズキも軽から4輪車に参入、そのルーツはトヨタと同じ自動織機の生産・販売でした。初代の軽=フロンテはいきなり前輪駆動、2ボックスの先進的なクルマ。でも販売網も未整備でホンダのようにいきなり大ヒットには繋がりませんでした。そんなフロンテが大きく主旨替えしてスバルと同じリアエンジンに生まれ変わったのが2代目フロンテです。2ストロークのシリンダーを3つ並べた3気筒はホンダとは違ったアプローチで高性能を謳っていました。当代きってのレーサー、スターリングモスがイタリアの高速道、太陽の道で連続高速運転を敢行し減筋速度120㎞以上という軽らしからぬ高性能を実証しました。

ツインキャブでパワーアップしたフロンテは36馬力、ホンダもN360にツインキャブ版を追加し、36馬力のハイパワー軽が出そろいます。排気量あたりで視ると1000ccあたり100馬力という高性能です。


大衆車戦争に続き、軽乗用戦争の勃発。日本のマイカーブームはこうして急カーブを描きながら保有台数を増やしていくことになるのです・・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?