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1974 黒船=ゴルフ来襲とオイルショックが変えた自動車のミライ,消えた30度バンクとライフ

オイルショック後の減速経済は戦後の若者が初めて経験する耐乏生活でした。銭湯通いするカップルがヒット曲の主役だったり、ソングライターが自ら歌うユーミンが脚光を浴び、影のあるアイドル山口百恵がブレイクするのもこれまでにない傾向でした。

カローラとサニー、販売合戦の主役は2度目のフルチェンジのタイミングを迎えますが、たった1年の違いで世の中は大きく変化していました。

前年に3年の短い周期でモデルチェンジしていたサニーに遅れること1年余り、だったのが1973年秋に地球規模で襲ってきたオイルショックの影響をモロに受けた形になってしまいます。

サイズアップして、クーペやハードトップを作り分けた30系新世代のカローラは新型の文字をに広告に使う事はありませんでした。旧型の20系も併売されて、あたかも別シリーズのような振る舞いでPRせざるを得なかったのです。オイルショックを機に節約や倹約の文字が並ぶようになり、4年毎を当たり前としていた大大がかりなモデルチェンジも白い眼で見られるような世の中に激変してしまっていたのです。

そこで、計画されていたモデルチェンジを機にカローラ30と名乗って、20系に新機種を加えたかのような印象を与えていたのです。ツインカム・エンジン搭載のレヴィン・トレノもクーペボディとハードトップと、各独自色を強め、重量も嵩んでしまったので、後年は先代ほどの人気が得られなくなります。

さて、トヨタ傘下のダイハツはコンソルテ・ベルリーナに続く共同開発の乗用車として、シャルマンという4ドア専用車をデビューさせます。が、これは姿を変えたスプリンター20系(旧型)のフロントに丸型4灯ヘッドライトを並べ、高級感を醸しだしたカローラの別バージョン、というのが実際のところでした。じつはこれと別にオイルショック後を見据えた画期的なリッターカーが開発されていたのですが・・・・・

トヨタにはもう一台どうしても更新しておきたい存在がありました。セドリック・グロリアに販売で水を開けられたクラウンの刷新です。あまりに前衛的過ぎた先代の反省から、今回はクラシカルな威厳をテーマに保守色の強いデザインとしました。セド・グロのような4ドア・ハードトップという飛び道具も持ちません。3ナンバー2600ccエンジンを搭載したモデルを揃えるのが精一杯、アメリカで流行り始めた尻下がりのプレスラインを取り入れたクラシカルな雰囲気づくりも失敗を許されないクラウンには案外ふさわしいものだったのかも。

この年、日本に紹介された輸入車にVWゴルフがありました。あの有名なVWかぶと虫の後継と目される新型車、似ても似つかない真四角な、折り紙細工と揶揄される斬新なデザインでした。これが後々、世界のクルマのトレンドを塗り替える存在だったとは!

全長4mに届かない、カローラよりもコンパクトなサイズにもかかわらず、前輪駆動と巧みにレイアウトされたハッチバックの車体は、乗り込んでみるとクラウンよりも広い室内、と当初から評判でした。前年に登場したシロッコは露払い役で、その前に登場していたパサート、アウディ80は新世代を見据えたVWグループの新戦略車種だったのです。薫陶を受けた一人の評論家がゴルフを基準に日本車を斬りまくったのが後に世に出る「間違いだらけの…」

その頃ドイツ本国でVWとシェアを競っていたメーカーにドイツ・オペルがあります。中核車種のカデットはいわゆるカローラクラス.GMグループの世界戦略車種に取り込まれてアメリカではシボレーシェヴェット、イギリスではヴォクソールのブランドで販売されたTカーと呼ばれていました。ゴルフと違い保守的なFRセダン。

当時のいすゞはGMの資本参加を受け入れており、旧態化したベレットのモデルチェンジ版としてTカーにいすゞエンジン搭載のベレット・ジェミニとしてデビューさせます。2ドアクーペと4ドアセダンのみに絞り、ベレットにみられた品ぞろえの豊富さは失われます。

いすゞが再び自社開発のFFジェミニを送り出すまでには10年余りを要しますが、自社のツインカム・エンジンやディーゼル・エンジン、ブラック・ペイントをいち早く取り入れるなど、その個性を発揮しています。

日産の新たなリッターカー、チェリーも4年を経て第二世代のチェリーFⅡへと進化しますが、1000ccエンジンは無くなり、サニー並みに1200,1400エンジンの品揃えとされました。販売戦略の上ではサニーと同等の扱いだったのでしょう。

ユニークなのはクーペボディに奢られた巨大なガラス・ハッチバック。フランスではシトロエンSMという先例があったものの、ファストバックながら側方の視界も確保しようと、大きく左右をロールさせた1枚の巨大なガラスをボディの後半に備え、開閉できるハッチバックとしたものです。

この頃、日産を象徴するスポーツカーの代表選手、フェアレディZは石油危機にもかかわらず北米輸出が大好評、なだけでなくリアシートを備えた4人乗りを望む声も多く寄せられていました。そこで、ボディ後半を延長し、小さいながらリアシートを増設した2by2が加えられることになります。前後してガソリン・インジェクション(燃料噴射)や2600エンジンを搭載するプランもありましたがオイルショックのあおりを受けて頓挫、国内に姿を見せることはありませんでした。が,これは後年厳しさを増すことになる排気ガス規制強化への対応の意味も含まれたものでした。

オイルショックと共に自動車業界が直面せざるを得ない問題が排気ガスの浄化問題でした。ホンダ・シビックに搭載されたCVCCエンジンが世界一厳しいアメリカの基準にパスしたことも相まって、シビックの対米輸出は年を追うごとに増加。増え続ける需要にホンダも軽乗用、ライフの生産を止めてまでシビックの増産に向ける必要が生まれてきたのです。ここに,N360以来続いてきたホンダ軽黄金時代の第1期は幕を下ろします。軽トラックは残るものの乗用車はシビック一本でホンダの快進撃を支えました。

バリエーションも2ドアのみだった当初から3ドア追加、4・5ドアの追加とCVCC1500エンジンの登場、選択の幅も大きく拡がりました。そして4ナンバー商用登録のシビック・バンも加わります。ツインキャブのNやZが人気だったように、シビックにもスポーツモデルがあって当然、とファンなら思うでしょう。

その名前はRS、これをロードセイリングと読ませたのには排気ガス規制が迫る中、オイルショック下もあって、ガソリンを浪費するスポーティー車への風当たりが強まるのを避けた、という見方もあります。規制強化までの駆け込みのような1年に満たない販売期間ではありましたが、これ以降Sの名前を冠したホンダ車は暫く見られない、ということになったのでした。

フジ・スピードウェイで新進気鋭の若手レーシングドライバー風戸裕が多重事故に巻き込まれて事故死したのはグラチャンシリーズというの人気レース中でした。

これを機に国内随一の30度バンクの危険性が問題視され、手前に設けられたタイトなAコーナーでコースは短縮されてしまいました。

国内随一の長い直線部分を疾走したまま高速でバンクに侵入するスピード感あふれるレースは茂木にツインリンクもてぎが出来るまでは20年もお預けとなってしまったのです。

排ガス規制とオイルショックはモータースポーツやスポーティーカーにも暗い影を落としつつあった1974年…前年に比べると派手なニューモデル発表も減り、東京で開催されるモーターショーも奇数年のみの開催となってしまうので,1974年の東京モーターショーは開催されませんでした…

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