見出し画像

ニッポンGT事始めは1964グランプリへの挑戦から。惜敗が生んだスカGの伝説

今に至るスカイライン伝説はいつ始まったのか?それは初代ではなくダウン・サイジングされた二代目にGTの称号が与えられてからのもの。

1964年東京五輪の開催は新幹線開業や高級ホテル、首都高速羽田線/モノレール開業も併せて戦後19年にして日本が敗戦国の印象を払拭するに余りあるものがあった・・・・・GTの称号を持つ日本車が現れたのもこの年。自動車レースの成績が売り上げに直結する事が明白となり、プリンス自工もまたグランプリレースでの必勝を期してスカイラインの車体を前にストレッチし、グロリア6用に開発されたOHC6気筒のハイパワーエンジンを詰め込む奇策に出る。ロング・ノーズでは日産がセドリック用にスペシャルを市販した例があるのみで最初はレース用に100台のみの生産だった。90台余りはスカイラインGTの名の下に市販されることに。

ポルシェ904との日本グランプリでの激闘がファンを沸かせ、翌年に市販車としてデビューを飾ったのがS54型スカイラインGT。当初のハイパワー版はS54Bとされ、普及版のS54Aが量産された。外観ではエンブレムの地の色が赤か青で識別出来るのみだった・・・・・これがGTーR登場までのスカGのカリスマ人気を盛り上げていた。

GTを名乗ったもう一台はいすゞベレットに加えられた2ドアクーペに排気量アップした1600エンジンを積んだベレット1600GTだった。こちらはアルファロメオを思わせるスタイルが魅力のスポーツ・クーペで、10年近くもこのデザインで人気を保った。左右後輪が独立して路面に追随する四輪独立サスペンションもラックピニオン・ギアのステアリングも当時のスカGには無い魅力だった。

画像1

007シリーズにボンドカーとしてアストンマーチンDB5が登場したのもこの年.当時は映画を見逃しても、ミニチュアやダイキャストモデルになったアストンマーチンを入手した子供達が山の様にいたはず.英国を代表するGTカーの立ち位置を不動のものにした。

GTの称号こそ無かったもののコンテッサ1300に後年加えられることになるクーペもベレG同様スピード感溢れる軽快な後ろ姿が年カルト的人気を呼ぶ事になる.日野自動車が独自開発したリアエンジン乗用車の二代目で最終モデルとなった1300はイタリアのデザイナーにデザインを委ねた魅力あるセダンだった。もしも3代目が生まれていたら、と思わずにはいられない。

スカイラインと同じく1500クラスの人気車種コロナが三代目に変身。それまでが時代遅れに感じる程の大幅な変貌ぶりはアローラインと称される直線基調のもの.真四角のフロント・グリルに丸型4灯のヘッドライトは上級車並み。グリルの上辺がスラントしたデザインはスピード感を演出するもの。ライバルのブルーバードを販売面で大きく引き離した。このモデルでコロナは生産累計百万台を突破、トヨタの総生産台数が300万台の時代だったから、3割バッターだったことになる。

この時、トヨタ最上級のクラウンにはオーバー2リッターのV8エンジン搭載車が仕立てられた。スカイラインの様にエンジンルームを縦に伸ばすのでは無く、車体幅を前から後ろまで10センチ以上も拡幅したのがクラウン・エイト。これが後々センチュリーに繋がる。既に日産には直列6気筒のセドリック・スペシャルと言うライバルがおり、翌年にはプレジデントと言う法人向けⅤ8搭載の大型セダンが生まれることに。

黒塗りハイヤーを中心としたこのマーケットには三菱も参入する。三菱系列各社の重役の人数だけ数えてもかなりの数に上るはず,それが自社グループの高級車を選ばないはずがない。デザインはアメリカ車も多く手がけたデザイナー=ブレッツナー。そのゴージャスな佇まいは同クラスを遥かに凌駕したもので、実に昭和の終わり頃まで四半世紀もスタイルを替えなかった。

実はこの年、アメリカではムスタングと呼ばれる新型車が大ブームを起こしている。サブ・コンパクトと呼ばれる、アメ車にしては最小クラスの土台をベースに2ドア・ハードトップの軽快なボディーを載せたパーソナル志向の「小型車」だった。クーペ主体の展開はスペシャルティ・カーとして新たな需要層を開拓し、6年後にセリカが誕生する契機にもなる。またレオーネ、FTO、VWシロッコ、スターレットといった車種がクーペから先に市場に投入した事も影響を受けたものと見る事が出来るだろうか。

さて二輪グランプリで名声を確立したホンダはまだ乗用車生産には乗り出したばかりだった。発表したばかりのスポーツカーS500を増強してS600とした。これにはクーペ・ボディも追加され、ホンダはビジネス・カーと銘打っている。テールにハッチバック・ゲートを備えていたのはこの種のクーペとしては異例に早かった。

この年ホンダは自動車レースの最高峰F1に挑む計画だった。だが車体を担当するロータスにドタキャンされ急遽、自前のテスト用車体で参戦する事に。これがRA271だった。

画像2

F1ファンが目を丸くして驚く横置きV 12気筒1500ccのDOHCエンジンもホンダにとってはバイクで作り慣れた125ccシリンダーを12個並べただけのこと.横置きエンジンもまたバイクでは手慣れた手法で驚くには値しないものだった。そんなユニークな東洋の異端児が翌年優勝トロフィーを手にするとは誰も予測出来なかったことだろう・・・・・・日本はもう惨めな敗戦国などでは決してなかったのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?