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第2節/第3節 判断は分析的判断と綜合的判断とに分類できる

「判断」には、ア・プリオリかア・ポステリオリかの区別(経験にもとづかない普遍的なものか、経験に基づくものか)とは別に、内容による区別がある。分析的判断(内容が増えない)と綜合的判断(内容が増える)である。

ところで判断とは、「AはBである」という命題をさす。



AはBである。Bが定義のなかに含まれている場合、Aをよく考えてみればBは導ける。定義は絶対正しいから、Bも絶対正しい。というか、定義の中に含まれていることを取り上げただけだから、定義以上の内容は何も語っていないことになってしまう。
たとえば、「このバナナはくだものである」。バナナの定義の中に「くだもの」は入っている。このバナナはプラスチックである、は成り立たない。それはすでにバナナではない。この、主語と述語が矛盾してはいけないという当たり前のルールを、矛盾律という。で、このバナナがくだものである、は正しいけど、バナナはそもそも誰がどう考えても定義上くだものなので(ア・プリオリにくだものなので)、このバナナがくだものであると述べたところで、バナナについて定義以上の情報は得られない。バナナはくだものである、は、バナナとは何か、を考えればその答えのなかに絶対含まれる。無知な人は勉強するべし。こういうのを分析的判断という。
バナナについて勉強しないと(経験しないと=ア・ポステリオリ)くだものだってわからないよね、という反論はそのとおり。でも、どのバナナでもいいけどバナナについて一回勉強しさえすれば、バナナはくだものだとわかるし、それ以上の勉強は不要だし、そうやって得られた知識は定義だから永遠に正しいし、というか勉強する前からバナナはくだものだし、そういうのはア・プリオリと称していいんじゃないかな。

AはBである。Bが定義の中に含まれていない場合、Aをよく考えてみてもBは導けない。
たとえば、「このバナナは赤い」。黄色じゃなかったの? でもそのバナナは赤い。赤いけどバナナと認めた。ということは、バナナは黄色じゃなくてもいい。黄色はバナナの定義にはそもそも入ってなかったということになる。「バナナは黄色い」は、黄色くないバナナの存在も許容する=バナナが黄色いかどうかは、バナナの定義をいくら掘り下げても確定しない。
バナナは赤い、バナナは黄色い。どっちも、バナナの定義プラスアルファ。この、定義「プラスアルファ」だよね、というところをとって、定義を拡張したといい、こういう、定義を拡張する命題を、綜合的判断という。

経験判断は、常に総合判断である。
ていうか、経験判断(経験に基づいた判断)であって、経験が定義に含まれることはありえないので、当然ながら総合判断である。たとえば、こないだの日曜日に雨が降ったからといって、日曜日の定義に雨は含まれえない。

数学的判断は、すべて綜合的判断である。数式は誰が何回計算しても未来永劫正しいから、ア・プリオリな判断ではある。しかし綜合的判断でもある。定義から直接導かれるわけではない。定義以上のことを何も語っていないとかでもない。定義プラスアルファが成り立っている。

1 + 2 = 3
1と2との和という概念を分析しても、3にはたどりつかない。たどりつくじゃん、と考えそうになるけど、たどりつかない。なぜ3なのか、と言われたら、どうする?

1 + 2 = 3 を人生はじめて学習するとしよう。
1(●) と2(●●) をあわせれば ●●●=3
と、●かなにかを使って学ぶことになると考えられる。
この●は「1とは何か」の概念(定義)ではなく、「1を頭の中あるいはノートの上に、描き出してみた」ものであり、「いま、ここ」にしかない●である。こういう、「いま、ここ」にしかない考察材料を直感と呼ぶ。
ということは、定義(概念)から定義以外のプラスアルファ=直感に移行して●と●●を合わせると●●●だよね、という操作を行い、ふたたび定義(概念)に戻ってきたよね、ということ。

そうはいっても、
1 + 2 = 3
は常に成り立つ。しかも、1+2 も3 も概念なものだから、概念から概念が導かれた、ということはこの命題は「1+2 とはなにか」と概念について考えさえすればよい分析的判断だ、と多くの人が誤解してきた。ところが数学は、概念だけを追求していても永遠に答えは出ず(分析的判断とはいえず)、一回直感に移行していろいろ操作して新しいなにかを作り出さないと答えは出ない。つまり数学においては、解は定義プラスアルファのなにかであり、綜合的判断である。(じつをいうと、綜合的判断でないとすれば数学は進歩しない)

別の例。
直線とはまっすぐな線である、という定義があるとする。「まっすぐ」という性質が語られている。
直線とは二点間の最短距離である、というのは、距離という量の問題であり、「まっすぐ」という性質の問題ではない。これについてもわたしたちは、頭の中あるいはノートの上に、まっすぐな線=直線を引くことで証明して納得する。1 + 2 の件と同様に、定義から一回直感に移行して、いろいろ操作(眺めるとか複数描くとか計るとか)して、もともとの定義(まっすぐ)には含まれていなかった概念(最短)を得ている。これは綜合的判断。
こっちのほうがわかりやすい。

本来の形而上学的判断は、すべて綜合的判断である。
形而上学のめざすところは、ア・プリオリな(誰がどう見ても常に正しい)認識をつくりだすことだからである。
形而上学には「〜とはなにか」を問う分析的判断も含まれる。しかし、分析的判断を追求したところで情報はまったく増えず、新しいものは何も得られない、つまり学問はまったく進まない。分析的判断は形而上学の材料であって、目的ではない。

まとめると、
分析的判断は、誰がどう見ても正しい(ア・プリオリな)定義の一部だから常にア・プリオリに正しい。
そして、
綜合的判断にはア・プリオリとア・ポステリオリの両方がある。経験的判断は経験に基づくから定義上ア・ポステリオリ。数学と形而上学は誰がどう見ても正しいからア・プリオリ。ただし、形而上学の材料は分析的判断である。

(カントによる自意識過剰コメント)
カント以前の哲学においては、
分析的判断=定義=ア・プリオリ
綜合的判断=経験的判断=ア・ポステリオリ
という単純な二分法が流行っていたから、形而上学がまったく進歩しなかったのも無理はないよね! 自分でよく考えればわかるでしょう!

(はるまきのコメント) バナナは黄色いくだものである、というところは本文では別の例でした。3日間ほんといろいろ考えて、この例までいきついて、やっとイメージできた感じです。


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