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昔犬に噛まれたからすべての犬が怖い、について。

わたし、過去において、犬に噛まれたことが2回あるんです。どっちも縫うレベルの怪我で、しかも留学中だったので、かなりの恐怖体験でした。病院も怖かったです。英語だったから、医師とか何を言ってるかわからなくて。

その結果、犬が怖いんです。いまでも。20年以上たってるのに。


「犬」を学習する

犬に噛まれた(この時点では特定の犬)から、その犬を見かけたら逃げるにつながり、そして、「犬」という言葉を介して(実物の犬=「犬」という言葉なので)、いかなる犬についても見かけたら逃げる、となる。で、いまでも、犬を見かけたら逃げるわけです。こういう、行動(この場合は「逃げる」)のきっかけが広がっていくことを、「般化」といいます。

ちなみにこの、実物の犬=「犬」の「=」を、フレームといいます。フレームには「=」以外にも、いろいろあります。「>」とか因果関係とか。

わたしに何もする気がない犬としては、いい迷惑ですよね。まあ、逃げたわたしは「弱いやつ」というわけで、吠えられるんですけど。悪循環。

カサンドラ問題も一つはこれですよね。
自分の夫に腹が立つ
→自分の夫と、ASD(という言葉)が結びつく
→ASDという言葉で指し示されるすべての人(=ASDの人)に腹が立つ

カサンドラの人たちに何もしていないASDの人からしたら、いい迷惑です。事実何もしていない。でも、カサンドラの人たちからしてみると、自分に対して悪い態度をとる自分の夫と「ASD」という単語はイコールで結ばれていますから、「ASD」に対しても、自分の夫に対するのと同じように腹が立ってしまう。般化です。

般化は、条件さえ整えば、起きてしまいます。「ただしい」かどうかはわかりません。わたしが、気性が穏やかで絶対吠えないしつけのいい、リードにつながれた犬から逃げるのも、たぶん、「ただしい」わけではない。相手は犬なのでどう思っているかわからないけど、飼い主の人を悲しませたことは実際あります。

そういう心理学の概念を思い出して、ある意味しかたないのかな、と思ったりしたのでした。でもさ、その「般化」が「ただしい」わけではない場合、せめて攻撃は思いとどまりたいよね、とか。望みすぎでしょうかね。

最近勉強してました。わかりやすいし、よい本だと思います。


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