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第1節 形而上学の源泉について

カント「プロレゴメナ」は、すべての形而上学的認識の特性に関する予備的注意 という、前提みたいなものから本文がはじまります。

第1節 形而上学の源泉について

形而上学は何をする学問なのかというと、客観的な、誰もが考えてみさえすれば納得できるような命題を作成する学問である。
そもそも形而「上」学とは、みる・きく・さわること(=経験すること)のできないものを対象として、経験にもとづかない方法で(ア・プリオリに)考える。みる・きく・さわることのできるものを対象とするのは形而下学で、たとえば自然科学や心理学のことである。



みる・きく・さわることができないものについて、経験にもとづかない(ア・プリオリな)認識を用いて考える学問には、形而上学だけでなく、数学も含まれてしまう。形而上学は哲学であって、数学とは別の学問である。

数学的認識は、概念の構成による認識である。
これはつまり、概念=定義ははじめに与えられていて、それを用いて、ルール(公理)に従っていろいろ考えて、みんなが納得するような定義(定理)に至るのが数学である、ということ。
たとえば、「三角とは3つの辺をもつ図形である」という定義がある。その定義に従って頭の中でもノートでもいいけどとにかく三角を作図して、その三角はゆがんでいたとしてもその三角を通して何かしら普遍的な三角が想定されていて、その描いた三角を用いていろいろ考えて、普遍的な三角に適用して何かしらの命題を証明する。
そもそも三角の定義(三角とはなにか)がないことには話が始まらないことに注目。

哲学的認識は、「三角とはこれこれである」という定義から始まるのではなく、「三角とはなにか」から始まる。三角は誰でも「そうだよね3つの辺をもつ図形だよね」とわかるから考える必要はないけど、ややこしい話になるとがんばって考えて「これ以上さかのぼれないと思うんだよね」と自説を提示して批判を待つことになるから、全員に絶対わかる定義とは区別して、定説と呼ぶ。
「三角とはなにか」についての定説がゴールになることに注目。


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