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自分的事例検討3:話し言葉と書き言葉の区別がつかない

ASDとは! と一般論で語るのが難しいのは、わたしを例にすると、
・ 掃除機の音が苦手→ASD由来の感覚過敏
・ 球技できない→協調運動障害+左右失認
とかいう「特性由来!」なこととその組み合わせだけじゃないからだと思います。

以下、それをふまえて。


一般化できることと、特殊事情

子どものころ、話し言葉と書き言葉の区別がつかず、まるで難しい本を朗読するかのような話し方をしていた件について、です。まさか、ASDの子どもが全員、話し言葉と書き言葉の区別がつかないなんてことはないと思います。とはいえ、この件、わたし自身のASD特性とは深く関わっているのですよね。数式的にいうと、

「一般化しうるASD特性」+「はるまきの特殊事情」
 →「キッズはるまきの特殊な話し方」

ということになります。

一般化できそうなASD特性

「一般化しうるASD特性」としてまず思いつくのは、「相手が理解していなかったり、驚いたり戸惑ったりしていることを、検出することができない」でしょう。相手が困っていることがわからない、よって、特殊な話し方をやめられない、というわけですね。それは実際そうだったと思います。

「わかりやすい」言葉を使えなかった、というわけでもないんです。勉強などを教える際にはなんらかのスイッチが入り、相手の理解度に応じて語彙を選択することは自然にやってました。ということは、「人間なら誰でも」自分の話し方で通じる、と思っていたわけではなく、「必要に応じて」使い分けることは必要だとわかっていた、ということになります。

たぶんこれ、「人間なら誰でも」ではなくて、「大人なら、自分より年上の人であれば誰でも」自分の話し方で理解できるはずだ、だったと思うんですよね。自分はここまで(5年とかだったとしても)生きてきてこれこれの言葉を学習して使えるようになった、よって、自分より長く生きている人たちは当然、自分の習得しているような言葉を使いこなせることができるはずだ、という感じです。それがそうでもない、と気づくのには、長い時間がかかりました。ただの、理由のない思い込みというよりは、たとえば長幼の序みたいな、自分なりに納得できる筋道をたどっての結論だからこそ、ひっくり返すことが難しかった、というほうがしっくりきます。

言語優位とかの、ありそうな事情

一回習得して使い始めた「特殊な話し方」を「やめられない」のはいいとして、じゃあ、どうしてそもそも、その特殊な話し方を始めたのかという問題があります。

言語優位でいくらでも本が読めたのは一因だと思います。また、視覚過敏でテレビがほとんど見られなかったことや、音声入力自体がそもそも苦手で、文字入力のほうが入りやすかったこともあるでしょう。音声を聞き直すより、文字を読み直すほうが容易であり、安心できた、というのも見逃せないように思います。理解できなくても、読書百遍意自ずから通ず、じゃないんですけど、前後を読み直すなどして理解できるまで考えていてもいい。誰も困らないし怒らないしイライラしない。楽ですよね。

それに、たいていの本は、相互に矛盾しない、道徳的によいこととして納得しやすいテーマが書かれていて、整合性が取りやすく、それまでの自分の世界となじませやすかったです。そうして「真善美についての謎のネットワーク」がじょじょに強固になっていきました。それがいいことかどうかはさておき、です。

特性以外の特殊事情

特性に加えてかなりの近眼だったため「相手のわかっていない顔」を認識することが困難だった、というのも見逃せないように思います。しかも、中学校に上がるまでメガネを買ってもらえなかったんです。そのほうが視力によいと両親は信じていて、黒板が見えないと訴えても、じゃあ最前列に座りなさい、で一蹴されてました。この、一蹴するあたりは父親のASD特性が絡んでいるように思います。

家庭事情としては、家に本がたくさんあったことや、本を読むことがよいことであると肯定されていたことがあるように思います。また、長子であり「年齢相応」のイメージが両親になくって、違和感を持ちづらかったことも挙げられるでしょう。

「特性」とされがちなことの、分析の必要性

こんな感じで、「特殊な話し方」という、おそらくはASDあるあるっぽい現象についても、ASD特性と個人の事情の両方がからんでいて、結構詳しく分析しないと、何がどうなっているか理解するのは難しいように思うのです。

なおそれはそれとして他人に通じる話し方は習得したほうが人生楽です。習得の順序や方法はさまざまだとしても。

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