見出し画像

ニューロダイバーシティは、「お気持ち」なのか。

ニューロダイバーシティが想定しているのは、本人の努力(+得られるなら周囲の協力)で問題をその人の限界まで解決してきた層で、その努力や工夫についての矜持がバックグラウンドにあるんじゃないかなと推測している。

「がんばってきた、できることはやってきた、それでもなお残るものについて、自分自身は特性として受け入れようとしてきたし受け容れつつもあるけど、社会の側もそれを理由に排除しないでもらえると嬉しい」くらいにとらえてる。お気持ちと言われれば、そうだね、と言うしかない。


「なんとかしてきた」物語としてのニューロダイバーシティ

わたしだけかもしれないけど、「なんとかかんとかサバイブしてきた」という、実績に基づく自信みたいなものは間違いなくある。20代までだれにも理解できない言葉をしゃべっていたのを直したり(たいへんだった)、自分の能力と実績(あえていう)で周りの協力を勝ち取ったり。(私的な)療育や特性の(自分で勉強したり考えたりすることによる)理解、ツールの購入、周囲への働きかけや、できることをこちらのカードとした上での交渉を行ってきた。転職は何度か繰り返したけど、転職のたびに、「実績を積み重ねるまでだれもわたしの言うことなど聞いてくれはしない」というプレッシャーは大きい。

どこまで行っても消えない「特性」

なんとかしてきた、とはいっても、どこまで行っても消えない特性はある。たとえばわたしの場合、徹底的に追視ができない上に協調運動障害がかなり深刻なので、みた感じ「ふつう」とは言い難い。子どものころからものすごく勉強ができたので許されてきたところはないではないけど。今の時代じゃ無理よねとときどき思う。

ニューロダイバーシティで「主役」とされる人たち

ここまでを前提としたうえでの「ニューロダイバーシティ」だとしたら、自前の能力と努力と(自分の見える範囲での)周囲の協力でいろいろを解決したうえで、それでも残るものについて社会の理解を求める、だとしたら、やっぱり、「能力が高く」「実績があり」「親などの協力がある」人が目立ちそう、ではある。

努力ができるのも一種の才能ではある、という論を目にすることがある。それは実際そうだと思う。そうだとしても、努力は努力、ではないだろうか。努力教とかいう揶揄はさておき、個人の努力で達成できるものは、ある。そして、本人の努力と周囲の協力で何ごとかをなし得た人が、その何ごとかについて誇りに思うことは当然だし、認められてしかるべきだとも思う。

そして、繰り返しになるけど、がんばってきた、できることはやってきた、「それでもなお残るもの」について、自分自身は特性として受け入れようとしてきたし受け容れつつもあるけど、社会の側もそれを理由に排除しないでもらえると嬉しいという「主張」については、その「お気持ち」を、お気持ちにすぎないからと「なきもの」にされると悲しい。「悲しい」ってね。そこからして「お気持ち」だけどね。

ニューロダイバーシティと療育

「それでもなお残るもの」を療育で減らすことはできるのだろうと思う。ニューロダイバーシティ自体、療育がない(少ない)時代に、療育なしで「やってこれた」層が主張している「お気持ち」なのかもしれないな、というのが、ここまで考えての結論です。

わたしにとっての「それでもなお残るもの」が、療育によって本来は消去できるはずのものである可能性は否定できない。わたし自身療育を受けてきたわけではないし、療育の現場を知っているわけではないから、そこはよくわからない。療育の研究と実践が進めば、ニューロダイバーシティの必要性は減るのかもしれないし、もしそれが可能だとしたら、そのほうが望ましいのだろうとも思う。

ニューロダイバーシティの限界あるいは問題

ニューロダイバーシティが適用される中核群と辺縁群がいるんだろうと、思ったりしている。グラデーションね。

物語としてのニューロダイバーシティ、と考えると(別の捉え方はあるのは知ってる)、その物語がものすごくしっくりくる人たちとそうでない人たちがいるのは、そうだろう、と思う。物語としてのニューロダイバーシティから導かれる結論の一部が、すべての人(ASDに限らないかもしれない)に適用されるとしても、だ。

物語としてのニューロダイバーシティ

 ニューロダイバーシティには「物語」の側面と「そこから導かれる原理原則」の側面がありそうで、前者は適用できる人としづらい人のグラデーションがあり、後者はすべての人に適用できる、というのが現在の結論です。

ニューロダイバーシティを、それが完成途上だった時期にまず物語として受けとめた層と、ほぼ完成? してから事実あるいは原則として受けとめた層との違いはありそうな気がしている。

そうなんだよね。それもものすごくよくわかる、というか、たぶん、実際にはこっちなんだよね。ただ、「わたしにとっては」、物語としての側面が強く印象に残り、だからこそ「ニューロダイバーシティ」という言葉に対して若干の違和感がある、ってだけで。

ごちゃごちゃしてきたので、このへんで。いずれまとまるといいな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?