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相手の「気遣い」で消耗する件について。

気を使われると、真理値が測定できなくて困る、場合によっては真理値ゼロだと判定してコミュニケーションそのものを打ち切りたくなる、と、前回書きました。

真理値不明あるいはゼロだから意味がない、というだけでなく、消耗するよな、と、ふと思いまして。

これだ、と自分で書いてて思ったんですよね。気遣いにはその裏に、文字通り以外のものを受け取れ、場合によってはなにか返せ、という要求が、うっすらとでも隠れていると思うのです。まったく何もないこともあるのかもしれないけれど、隠れている可能性はある。

要求があるのであれば、お応えしたいという気持ちはあるのです。しかし、何を要求されているのかわからない。返しようがない。焦る。正面切って尋ねることはできません。だって、気遣いによって隠されているものを指摘し暴くことになってしまいますから。そこを隠すのが気遣いでしょう? 気づいた、と明確に表明することは、気遣いの全否定になってしまいます。

で、読み取ろうとして失敗した結果、次善の策として、「そもそも何か隠れているかもしれないという可能性を含めてまるっと無視して無邪気に喜んでいるフリ」をするわけです。考え込んでいるところは、見せられない。これ、やっているうちに疲れて自動運転になって、たとえば嫌いなものが食事に出ても、すべて同じ調子で「喜んで」食べてしまい、毎回その嫌いなものが食卓に並ぶ、みたいな事態につながってしまいます。よけいに消耗する。

わたし、演技はうまいんですよね。隠そうと決めたことが表情や言動から察知された経験は、ほとんどありません。人前で見せている感情は、そもそも全て演技ですから。素のわたしは内面の感情にかかわらず無表情です。

もうちょっと考えると、「気を使われている」と感じた時点で、そのコミュニケーションの真理値は、ゼロとまでは言わないまでも100%ではなくなっています。ということは、わたしも、真理値100%の返事をする必要はない。わたしにとって「誠実」とは、真理値100%のことばを届けることです。(わたし的な)不誠実には(わたし的な)不誠実で返したっていいじゃない、という、多少投げやりな気持ちも、入っているかもしれません。不誠実には不誠実で返す、という態度も、それはそれで申し訳なかったりして、よけい消耗したりして、ね。

というわけで、率直なやりとり、歓迎です。


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