見出し画像

「気遣い」に対応するプログラミングについて。

ことばを字義通り解釈する、とされているASDでありつつ、わたしの場合、たとえば、「無理しなくていいからね」を文字通り受け取るか、というと、必ずしもそうではありません。

初めて言われたときには、たぶん文字通り受け取ると思うんです。でも、それで怒られるなど失敗したとすると、その後「無理はしなくていいからね」を、「真理値ゼロ」の表現とみなすことになります。要は、意味のない発言として無視するわけです。

その後、病院で医者に「無理はしないでね」と言われて、そのアドバイスを完全に無視してやっぱり怒られるかもしれません。この場合、「医者が無理しないでねといった場合については、そのまま従う」という場合分けが行われます。

同様の操作を繰り返して、「この人がこの場面でこう言った場合には真理値はこのくらいと予想される」という予想が張り巡らされ、「この真理値に従ってこのような態度をとる」というプログラミングを行い、それに従って行動しているわけです。「真理値ゼロであるので内容については無視すること、しかし、気遣いの表現であり感謝を示すことが期待されているので、感謝を示す言動を行う、感謝を示す言動とは口角を上げて目線を合わせ、ありがとうございますと述べて軽く頭を下げることを指す」といったプログラムも数多くあります。

疲れそう、というコメントをいただきました。はい。疲れます。真理値が高いコミュニケーションについて、多少のプログラムを走らせることは必要なコストとして認識できても、徹頭徹尾真理値がゼロあるいは限りなくゼロに近いと判断されるコミュニケーションについて、延々とプログラムを走らせ続けることは正直言って苦痛です。徹頭徹尾ゼロならまだしも、真理値が揺らぐ場合は最悪で、判断のコスト・反応のコストに、失敗するリスクと失敗した場合のリカバーのコストが上乗せされることになります。コストに見合わないと判断して、コミュニケーションを打ち切る、というか、疲弊して続けられなくなることもしばしばあります。「この人についてはほぼ毎回真理値ゼロ、気遣いのみで伝達内容は存在しない」と判断した場合、多分かなり徹底して、その人を避けます。

最近はその「気遣いの意思」が、多数派の人にとっての善意の表れである、という理解が進んできたので、(わたしにとっては負担でしかなくとも)その善意に対して多少は感謝できるようになってきました。

「気遣い」にあふれた言動というのは、わたしが多数派であれば、すなわち彼らと同族であるとの仮定に基づき、喜ぶはずだという予想があるのだろう、喜ぶという予想に基づく言動なのだろう、と頭では理解しています。頭で理解しているからといって疲れることには変わりなく、「そのまま受け取ってかまわない」気楽さのほうが百倍ありがたいです。

口頭でのコミュニケーションはこの「気遣い」問題が重くのしかかりやすいので、リアルでのプライベートな人付き合いはほぼゼロです。文章については「気遣い」問題がそこまで大きくないことが多く、さらには、即座に反応する必要がなく考える時間があるので、負担が少なくて気が楽です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?