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プロレゴメナ序言

カントの「プロレゴメナ」読み始めました。各種参考書を参考にしつつ読み進めているので、メモを兼ねて。プロレゴメナとは、「純粋理性批判」が難しすぎるとか範囲が広すぎるとか批判されすぎてキレたカントが、自分で描いた入門書です。以下、「わたしの」理解です。

プロレゴメナ −およそ学として現れ得る限りの将来の形而上学のための序論

「プロレゴメナ」は、自分でものを考えようとする人が形而上学について考えてみるために書かれている。よくいる学者は、すでに誰かが完成してくれた哲学について勉強するだけだけれど、本来哲学というものは、これまで考えられたいろいろをとりあえずなかったことにしたうえで、根本的にものごとを考えることを指す。
ところで形而上学(=具体的かつ経験に基づくいろいろではなくて、抽象的かつ経験に基づかないいろいろについて考える学問)は、何千年の間まったく進歩していない、というのも、何が正しくて何が正しくないのかを判断する基準がまだできていないのである。
というわけで、「プロレゴメナ」は、形而上学の成立条件をあきらかにする。形而上学の成立条件があきらかになることで、形而上学はあらたに誕生することができるのである。

ヒューム(イギリス合理主義の人)が形而上学に大打撃を与えた件について。これによってわたし(カント)は目がさめた、という。
ヒュームいわく、
「原因と結果の結びつき(因果的連結)という概念は、必然ではなく、経験から導かれた想像の産物にすぎない」
必然というのは経験に関わらずということで、ア・プリオリともいう。経験から導かれるというのは、ア・プリオリに対して、ア・ポステリオリという。これを用いると、ヒュームの主張は、
「原因と結果の結びつきがア・プリオリに必然であり抽象的に導けるというのは幻想に過ぎない。そもそも、われわれが必然だと称しているものはア・ポステリオリないろいろからそれぞれ勝手にたどりついた想像の産物に過ぎず、みんなが共有しているかもしれないけどそれは偶然で、本質的には個人的なものである」
とも言いかえられる。
これはつまり、経験に基づかずに抽象的に考えるなんて不可能だよね、ということで、いいかえると、形而上学は存在しない! ということである。

ヒュームの問いはいいとして、形而上学は存在しないという結論はいただけない。というわけで、問いを「形而上学は可能なのか」に変形してみる。いいかえれば、経験に基づかず(ア・プリオリに)概念だけから、だれでも共有できる真理に到達することができるのかどうか、ということ。

ものを考える上で、常識だよね、で話を終わらせてはならない。常識は原則ではある一方で、原則の正しさを証明するものではないからである。常識は、経験について判断するときには役に立つけれども、概念だけにもとづいて判断を下すときには役に立たない。
形而上学においては、正しいと証明された原則だけを用いる。正しいと証明された概念だけを正しく積み重ねて、正しい判断に至る必要がある。常識の出る幕はない。

ものごととものごとの連結は因果関係しかないのか、と考えると、たぶん他にも連結方法はあると思われたので、いろいろ挙げてみた。この、ものごととものごとの連結を考えてみるための概念をカテゴリーという。カテゴリーによって、ものごととものごとの連結を、もれなくダブりなく(MECE)カバーしたのである。
このカテゴリーは正しい。正しさは証明可能である。経験にもとづかずにア・プリオリに正しいと言い切れる。そして、このカテゴリーが確立してはじめて、形而上学をつくりあげることができる。わたし(カント)はそれをきちんと証明した第一人者である(と自画自賛)。

これだけわかりやすく書いてもわからない人は形而上学には向いてないから他の学問に取り組みなさい、だそうです。


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