性質に名前をつける

言語の主要な役割は、記号列世界の間の対応関係を定めることといえる。「太陽は赤い」や「太陽は青い」というは、実在する太陽の色についての事実命題と対応関係にある。この命題が成立する時にはであるといい、成立しない時にはであるという。したがって「太陽は赤い」は真な文で、「太陽は青い」は偽な文である。このような真偽の判断ができる前提として、文と命題の対応関係が了解されている。

さて、文を飽和した表現とみなすなら、不飽和な表現というのもある。例えば「Xは水に浮く」という表現は、変項Xにどの対象を割り当てるかによってその真偽が変わる。このような不飽和な表現を述語といい、真となるような対象の条件を真理条件という。このように述語の真理条件を満たす対象の集まりという形で、0個以上の対象の集まりを指定することができる。逆に、ある0個以上の対象の集まりを述語の真理条件によって指定できる時、この述語を対象の集まりを表す性質の名前と呼んでも差し支えない。

上述のように、性質の実在性を前提とせずとも性質を述語とみなすことで議論ができる。これは、言語表現があるからといってその実在性が保証されているわけではないことを示すから非常に重要である。一方、性質が言語表現を持つことが常に可能とは限らない。以降、議論領域をにして算術的言語の場合を考えよう。

まずは、性質に名前を付けられる場合を考える。偶数であるという性質は∃y(y+y=x) という記号列の真理条件を満たす対象の集まりなので、この記号列を偶数であるという性質の名前としてもよい。もちろん、それ以外の名前例えば x=0⋁∃y(y+y=x) も偶数性の名前として適当となる。同様に2以下の数という性質の名前の一つは x=0⋁x=0'⋁x=0'' となる。

このように、有限個の数の集まりや偶数性といった性質には算術的言語での名前を付けられる。しかし、任意の数の集まりに名前をつけることができないことは簡単にわかる。というのも、任意の数の集まり全体の濃度(=べき集合の濃度)はカントールの定理よりℵ₀よりも大きいのに対し、記号列全体の濃度はℵ₀であり、全部に名前をつけることは不可能だとすぐにわかるから。

では、名前がつかない数の集まりの具体例は何であるか?というのが次にくる疑問であるが、その一つは「Xは真な文を符号化した数である」という真理性と呼ばれるものだ。その証明はここで書くには少し余白が少ないのでタルスキの定理(Wikipedia)などを見るのがよい。

まとめよう
・性質に対応する言語表現があるからといって性質の実在性は保証されない
・すべての性質に言語表現があるとは限らない(言語表現を持たない性質があるかもしれない)

この事実は、唯名論を始めとする実在論に関して大きな影響を与える。クワインの論文『何があるのかについて』もこれに密接に関連したトピックがあったように思う。