見出し画像

一等大切なこと

先日、世田谷ピンポンズさんのライブに行ってきた。文学フリマがきっかけで知った方。まず文学フリマについて少し書きたい。

文学フリマとは、ZINEや小説、エッセイなど、作り手が「自らが〈文学〉と信じるもの」を自らの手で販売する文学作品展示即売会のこと。高校の頃の現代文の先生が出店するとのことで足を運んだ。文学フリマの存在も、その先生のおかげで知ることができた。思い返すと、どんどんと出会いがつながっていっている感じがして嬉しい。

会場はとっても幸せな空間だった。出店している誰もが自分が文学と信じるものを販売していて、それについて一生懸命説明してくれて。買ったときに言ってくれる「ありがとうございます」が、普段スーパーやコンビニで聞くような業務的なものじゃなかった。世の中には何かを作っている人が、そしてそんな作品を求めている人がこんなに多くいるんだと思って、とても胸がいっぱいになった。何故か涙が出そうになったりもした。文学フリマは夢が膨らむような場所だった。

そんな会場で出会ったのが世田谷ピンポンズさん。俯きがちで、少し話すのが苦手なのかなと思ったりしたけれど、何となくその雰囲気と写真譚に惹かれて購入。他に売っているものをチラッと見て、歌も歌っているのかなとは思ったけれど、あまりそこでは気に留めなかった。後日世田谷ピンポンズさんを調べて曲を聴いたときから、ずっと好きだ。私はよく考えずに直感でお金を使いがちだ(そのせいでよく無駄な買い物もする)けれど、文学フリマで自分の直感を信じて作品を購入して、本当に良かったと思った。なんとなく気になりながらもブースの前を通り過ぎていたら、名前を忘れてしまっていたかもしれない。

先日のライブ当日はあいにくの雨。会場は下北沢の古書ビビビ。店主の方がTwitterで「世田谷ピンポンズさんのライブのときは確か雨だったことはない」と呟いていたのを見て、やっぱり私は雨女なのかもと思った。でも、そんなことが気にならないくらい良いライブだった。文学フリマのときに受けた印象とは違い、曲の合間に沢山話す、よく笑う人だった。

世田谷ピンポンズさんの曲は生で聴くとより切なく聞こえるなと思った。自分が体験したことではないのに昔の記憶を想起して懐かしくなったり切なくなったりした。昔のバイト仲間のことを歌った曲なんかは、聴きながら少し泣きそうになってしまった。音楽、映画、漫画、エッセイ、小説、その他なんでも、世の中のすべての創作物を生み出す人たちに尊敬の気持ちがとてもあるし、素敵な作品に出会える度にありがとうと思う。ありがとう。

世田谷ピンポンズさんの曲の歌詞の中にはよく「一等」という言葉が出てくる。「とても」「すごく」「一番」「最も」などではなく、「一等」。あまり聞き慣れない言葉なので、初めて聴いたときから印象に残っている。私が最近思った、一等大切なこと。

私は昔から読書が好きで、区の図書館にも学校の図書館にもよく行って本を借りていた。気になった言葉の意味はわからないと気が済まなくて親にすぐになんでも聞く子供だった(一度親に聞くには気まずい言葉の意味を聞いたことがあって、今思い出しても恥ずかしい)。国語だけやけに得意で、作文が表彰されたりクラスの前で発表させられたり、中学のときにお試し受験のために受けた模試では、作文だけ全国でもそこそこ良い順位だった。中学、高校と上がっても、本を読むことも国語の授業もやっぱり好きだった。大学になってから、観た映画の原作を読むようになったり、エッセイなんかも読むようになった。いずれにしても、私にとって言葉はずっと特別なものだった。言葉の表現に感動したり、共感したり、理解できなくて考えたり。難しく、一歩間違えればとても暴力的で、とても繊細なものだからこそ、私にとっては特別で大切なもの。大切にしたいもの。

だからと言って人間関係において私が言葉による過ちを犯したことがないかと言われると全くそんなことはなく、言ってはいけない言葉を言ったり、伝えるべき言葉を伝えられなかったことだって数え切れないほどあったはず。それでも言葉は大切だと意識するかしないかだけで、普段の生活だったり人間関係はかなり変わるはずだと私は信じている。今までの失敗があったからこその今だというのはかなり綺麗事なのかもしれないけれど、傷付けてきてしまった人に対しては申し訳ないと思うけれど、今までの人生で誰一人として傷付けてこなかった人なんていないと思うから。

人と人は、完全に理解することはできないけれど、言葉を尽くすことである程度は歩み寄れると思っている。というより、私は言葉の力を信じたい。言葉にしたとしても、相手が実際にどう受け取っているかをこちらが把握することは難しい。前に読んだものに、「言葉は事故のようなものである」と言った内容が書かれていた。いくら自分が気を付けたところで、相手の受け取り方によって解釈は変わってしまうから。だけど、言葉にしなければ伝わらない。憶測で終わってしまう。どうせこちらの本当に伝えたいことが伝わらないかもしれないのなら、私は言葉を尽くしたい。

分かり合えないことが当たり前で、それでも分かりたい、分かってほしい。だから歩み寄るし、言葉にする。私は相手の言葉を信じたいし、私の言葉も信じてほしい。この前先輩と話していて、むしろ分かり合えないことが丁度良いとさえ思った。すべてわかってしまったらつまらないから。だから、すべてはわからないけれど、どこまで理解できてどこから理解できないのかを知りたい。私も色々と勘繰ってしまって本当のことを言葉にできないことが多々あるけれど、勇気を出して気持ちを言葉にすることにはきっと意味がある。話したい。話してほしい。

そう思っているからこそ、自分が勇気を出して言葉にしたときに、相手から同じだけのものが返ってこないと悲しくて、虚しくなる。真剣に向き合っている自分が馬鹿みたいじゃないかと思う。「ごめんね」が聞きたいわけじゃない、思っていることを話してほしいのに。その時点で相手が私に対して真剣に向き合いたいと思っていなかったのかもしれないけれど。こちらが言葉を尽くしたときに同じだけのものが返ってこない、真剣に向き合っていて馬鹿みたいだと思ってしまう関係性はなるべく続けたくない。そんな人に割く時間も愛情もないのである。常に時間が足りない。ずっと足りない。

いつまでたっても人生においてわからないことは本当に多いけれど、言葉は大切にしていきたい。私の一等大切なこと。

#日記 #エッセイ #コラム

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?