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悲しみに同等の永続性はないと信じたい


私は「悲しむ」ということが、苦手というか下手くそだ。そもそも人は誰だってできれば悲しみたくないだろうという意見は少しだけ待ってほしい。嫌なのは大前提として、悲しみ方が下手なのである。「下手」という表現が合っているのかわからないけれど、他の人と比べて悲しみ方がなんだか違う気がするのだ。

2022年9月に実家で飼っていた兄猫が亡くなり、今日、妹猫も亡くなった。兄猫が亡くなったとき、自分が記憶にある頃から飼い始めたペット(という言い方はあまり使いたくないけれど)が亡くなるという初めての経験に、しばらくは本当によく泣いていた。苦しんでいるところを見たとき、家でその姿を思い出して死んでしまうことを想像したとき、動かなくなってしまった姿を見たとき、ふと頭に浮かんだとき、今まで撮ってきた写真を見返したとき、実家に帰ってもういないということを実感したとき。勿論ものすごく悲しかった。私より長生きすることがないことはわかっていたけれど、死んでほしくなんてなかった。

それでも、二匹の具合が悪くなったとき、私はどう対応するのが普通なのか、わからなかった。逐一状況を確認し頻繁に猫に会いに行く姉と違い、私は積極的に様子を聞くこともせず、実家からの報告に対しての反応も遅く、素っ気なかったと思う。

今回のことも含め、なぜ自分がそうなるのかを考えたとき、私は自分が最優先で、少しでも悲しい気持ちになりたくないからだと思った。自分の心の安定を保っていたいのだと思う。現実逃避をしてばかりの人生である。苦しんでいるところを見たくない、想像したくないなんて、なんて傲慢で、身勝手で、薄っぺらい愛なんだろうか。

自分の生活でいっぱいいっぱいだからこそ、他のことで心を振り回されないようにしようというのは、友人が亡くなったときにも同じことを思った。本当は悲しいけれど考えないようにしているのか、考えないようにしてなんとかなるくらい、そこまで悲しくはないのか。もしかしたら自分はものすごく薄情な人間なのではないかと思った。でもその頃は生活をなんとかしないといけなかった。新しく始めたことで毎日切羽詰まっていて、その一件を頭から消したかった。そうしたらわからなくなってしまったのだ。悲しいことが起こったとき、どう感じることが普通なのか、どう対応することが、行動することが正解なのか、わからないのだ。

職場の先輩は、飼っている鳥の体調が悪い間、しばらく元気がなかった。私は猫の具合が悪くなってからも、勿論悲しいし心配だったれけど、ずっと沈んだ気持ちではなかったし、楽しいことは楽しかった。仕事で良いミーティングができたなとか、今日の料理は上手くできたなとか、音楽を聴いて楽しい気持ちになるとか、そういうことが普通にあった。楽しい気持ち、嬉しい気持ちでいるときは、猫のことは頭になかった。気持ちの切り替えが上手いと言うべきか、ただ単に薄情な人間なのか、わからなかった。猫の具合について送られてきたときも、どう返信するのが正解か考えていた。こんなときに楽しい気持ちを感じてしまっている私は不謹慎なのか、ずっと悲しい気持ちでいなければいけないのか。考える。考えても、私はそう思ってしまうのだから、仕方のないことなのだけど。それに、人の感情に関して「こう考えなければおかしい」「こうあるべきだ」というような厳格な規定はないと思うし、頭の中で思っているだけであればどう考えるかは個人の自由だとは常日頃思っている。思っているけれど、ずっと悲しい気持ちでいることが私は苦手だけれど、自分はおかしいのかもしれないという感覚が拭えないのである。

兄猫のとき同様、猫が亡くなったという連絡が母から来たあと実家に向かっている電車の中で、(見なければ死んでいないことにできないだろうか)と考えていた。亡くなったという連絡が来たときは涙がボロボロと出たものの、家でやらなければいけないこともあり、数分後には音楽を聴きながら淡々と作業をしていた。そのときはまだ実感をしていないから平然と過ごせていた。死んでしまった姿を見なければ、この気持ちのままでいられる。

でもそれと同時に、先に猫に会っている父、母、姉は今どのような気持ちなのか、全員沈んだ気持ちでずっと涙を流しているのか、私もしんみりとした表情で家に帰った方がいいのか、などと頭の中で考えている自分もいた。そんなことを冷静な気持ちで考えられている時点で、やはり冷淡で無慈悲な人間なのではないかと思っていた。

でも家に帰ると、少し時間が経過したからか、家族の様子は落ち着いていて、一通り泣いたあとみたいだった。少しだけホッとしながら、綺麗に箱に入れられた猫に会いに行き「眠ってるみたいだね」「綺麗な顔だね」と言いながら、硬くなった顔と体を沢山撫でた。毛並みはまだ綺麗だった。耳の裏は、良い匂いとは言えないけれど、生きていた頃に何度も嗅いだその猫特有の匂いがした。小さな体でよく頑張ったね、苦しかったね、と思うと、ボロボロと涙が溢れた。人前で泣くことも苦手だ。一人になった途端、声も抑えずわんわんと泣くだろう。嗚咽を堪えると喉が痛くなる。鼻水も出る。猫の話をして泣き、少し明るく何気ない話をしたあと、また猫の話に戻っては涙が出て、そんなことを繰り返していた。悲しみ方、悲しみの感じ方は少し違うかもしれないけれど、私もこの人たちと同じくらい悲しんでいるじゃないかと思った。

夜ご飯のときには全員で楽しく話せたことが、私は本当に嬉しかった。みんなにずっと笑っていてほしい。自分が振り回されたくないという自分勝手な理由かもしれないけれど、それでも笑っていてほしいと思ってしまう。自分の家に帰るときに、母から今朝のまだ生きていたときの猫の写真が送られてきて、電車のホームでボロボロと泣いてしまった。ちゃんと悲しめていることがなぜか嬉しかった。おかしいけれど、それでも、今日は悲しくて、嬉しかったのだ。

2匹を離れ離れにさせたくないからと、2匹の保護猫を引き取った約15年前。死ぬときに離れ離れになってしまったから、天国で楽しく遊んでくれていたらいいなと思う。2匹は私たちの家に来て幸せだっただろうか。沢山の癒しと愛をもらえて、私たち家族は本当に幸せだった。過ごした時間が本当に大切で、忘れられない時間になった。感謝の気持ちばかり。死んでしまったことへの悲しい気持ちは消えないけれど、同等の悲しみがずっとは続かないはずである。

木下龍也さんの短歌を思い出して、歩きながらまた少しだけ泣いた。

"愛された犬は来世で風となりあなたの日々を何度も撫でる"
ー 木下龍也『あなたのための短歌集』

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