見出し画像

別の生き物化して見てしまう思考

自分とは違う、別の生き物化して見るという事があると思う。

それは意識的にしろ無意識的にしろ、よく行われている事な気がする。

例えば家族間。例えば生徒間。職場関係。

「自分とは違う生き物のように思える」時、きっと「相手の事を理解する気」はゼロに等しい。

それはまるで、今まで猫しか飼った事の無い人が、猫とは「しゃべっている」とすら思うのに、鳥や亀、ゾウやシャチのする行動から感情を読み解く事ができないような感覚。

新生児に対して「何を話しかけたらいいのだろう」とか、「どう扱ったらいいのだろう」とかいう気持ち。


相手の事をどれだけ知って「理解した・分かる」と言えるのだろう。

こういう「別の生き物化して見る」という事は場所や範囲に関わらず、様々な深度で起きているなと感じる。

どんな単位であれ、社会の中では必ず鶴の一声を持つ人物がいる。その鶴の人が「こいつは理解する気にならんな」と思った時、ケーンと鳴けば、その瞬間に鶴の人にとって「仲間」なのか、「別の生き物」なのかの線引きが決定してしまう。

「別の生き物」と見られてしまうと、その人がどんなに人権だとかを訴えた所で、少なくとも意識の中では、同じ立場に立つ事を許されない。鶴の人は理解する気がないから。

上に挙げた、家族・学校・職場などは、グーグルマップ上の範囲を尺度とするならばごくごくミニな範囲での出来事だと思う。(※深度は決してミニではないし、あなたにとっての重大性を誰かが否定する事は出来ない。)


たとえ自分が鶴の人の仲間に入れたとしても、鶴の一声の届く範囲から逃れるか、同じだけの対抗勢力を得るか、などしない限りは、いつでも・誰でも「別の生き物化」される可能性がある。

例えば「お姉/兄ちゃんという生き物」「A/B/O/ABの血液型の生き物」「見た目が気に入らない生き物」「自分とは異なる世代の生き物」「女/男という生き物」などは、行動では殆ど対処しようがない事だ。それなのに、あらゆる場面で、その時々の鶴の人から突然に自由や権利を奪われたり、抑圧されたり、傷つけられたりする。

「田舎者・都会っ子」「関東・関西」といった地域による「別の生き物化」もあるだろう。

あるいは、「オタク」「マニア」、そこまでいかずとも、ただの「勉強好き」ですら、教室では「別の生き物化」することもある。

「また、誰の事を好きになった」でもそんな事が起きてしまう。

どんな事を好きになったり、どんな事に真剣な思いを抱くかなども、鶴の人の理解を得られなければ「別の生き物化」されてしまう。

その上、前述のものは一例で、鶴の人の気分でいかようにも「別の生き物だ」というラベリングは変わってしまう。

そしてだいたい、「別の生き物」にはこうしてもいい、こういう事を言ってもいいといった特別なルールが仲間の中で作られる。


ここまでは最も身近で、手に取って考えやすい例だと思って書いているけれど、実際に考えたいと思っているのはもう少し先の部分だ。

もっと考えなければいけないと思うのは、

自分の関わっている社会の中で、一体どういう人が鶴の一声を上げてしまうか分からないという事。

自分の関わっている社会の範囲が、どれほど広いのか把握しきれていないという事。

もし鶴の人が声を上げた時、私を仲間と思うのか、それとも「別の生き物化」して見てしまうのか、本当はさっぱり予想がつかないという事。


きっと鶴の人から「理解する気にならないなあ」と思われてしまったら、私個人がどんな思想や思考を持って・どこで生まれて・どんなルーツがあって・何が出来て、などは考慮されずに、「別の生き物化」のハンコを押されてしまうんだろう。

私がどんなに人権だとかを訴えた所で、同じ立場に立つ事を許されない。理解する気がないから。


突然そうなってしまった時、私はちゃんと、鶴の一声の届く範囲から逃げられるのか。同じだけの対抗勢力を得る事はできるのか。




おそらく世の中では、信仰とか、生まれとか、関係なくいつでも・どこでも・誰でも「別の生き物化」される可能性が、十分にある。と

思っていなければいけない。改めて。そう思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?