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成長、自他、共感

意思疎通の困難な疾患があるとして、その場合の病気の輪郭は観察者が作ることになる。我々の前提である「意思疎通できている」ことに疑念を持つと、この問題の根の深さに気が付く。私たちは本当に患者さんの想いを、もっと言えば、目の前にいる人の想いを理解し、”共感”できているのだろうか?

文化的な背景の違う患者さん、言葉の違う患者さん、世代の違う患者さんなどは、”共感”が難しい部分もあるだろう。「共感」って何だろう?自分から切り離された”私の想い”が、他の人に取り込まれたり、人と人との間を飛び回り、共有されるという事はあり得るのだろうか?

よく言われる事は、私たちが共感を見出すタイミングは、自分の期待する“共感的的態度”を、その人に見出した時だ。自分の中に”共感“のイメージやモデルがないと、他の人に共感してもらっていると感じにくくなる。

僕たちは生まれてすぐの時は、自他が分離されていない。母親の痛みは、自分の痛みである。同じ部屋の赤ちゃんが泣き始めたら、隣にいた赤ちゃんも泣きだすことはよくあることだ。この時期の共感は、情動的共感といわれ、幼いものや動物にも見て取れる。落ち込んだときに飼い犬に慰められた方もいるだろう。慰めようとして、自分のお気に入りのおもちゃを持ってくるかもしれない。

このような行動は、不完全な自他の分離に基づいたものだ。「他者の痛みは自分の痛みでもある、だからこれを和らげよう」という行動とされている。こうした情動的共感に基づいたコミュニケーションから、成長し自他分離の時期を経て、認知的共感にいたる。他の人と違う自分に気が付いて、自分の心の中の動きを見つめて、初めて他人の痛みが推測できるようになり、相手の望む思いやり・共感を示すことができるようになる。

さて、この論理でいけば、僕たちは、本当に困っている人の想いを理解し、共感できるのか、難しいところだ。でも、そこに寄り添おうとする姿勢こそが、一人ぼっちである大人に、本当は一人ではないんだよ、と示すことこそが、共感的姿勢でもあるように思う。

【追記】
このテーマは、古くからの哲学のテーマでもあり、詳しい方も多いだろう。若い方で興味を持った方は、マックスガブリエルや、フッサール、最近では、山武先生の「共感の正体」など大変読みやすい。その背景になる色々な議論を踏まえ、千葉先生の現代思想入門などと併せて読むと、なお、その深まりを感じるだろう。お時間ある若い方はぜひチャレンジしていただきたい。

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