感動の共有について

サンマロからパリへの車中にて

先日、哲学者アーレント文献を読んでいた。

彼の唱える「世界」は、それを共有する他者との「間」に存在する。その「間」から生 まれる「関心」は自立した個人の「関心」ではなく、人々を適度な距離でつなぐ(切り結ぶ)「inter-est」について考えていた。


そんな中、感動とは他者との共有の間にのみ存在するのだろうかと考えていたところである。しかし、果たしてそうなのだろうか?

サンマロから急遽、パリに戻っている車窓から見る景色はフランス特有の色鮮やかな黄色と緑の大地が広がる。
この目の覚めるような色彩のコントラスト、日本にはないこの色を前に小さな感動というものが自分を覆う。それは偶然という助走があっての出会いではなく、車窓からは何度も同じような景色を見るため、小さな喜びに似た感動の連続といえばいのかもしれない。

しかし、これら感動とは共有ではなく、自然と自己との間にのみ関係性が作られる感動なのだ。しかし、そこに誰かが関与した途端、全てが壊れていく。今この記事をメモしている間も静かに自然を見たかったため、一等車に乗車したがマナーの悪い母親と騒ぎまくる子供と同席をしてしまった。私の自然との無言の対話の中で生まれる感動はガラス細工のようなものであり、一瞬で壊れ色褪せてしまった。

それほど、感動をどれほどの密度と深度で自分に中に増幅させるかは静寂がなくてはならない存在なのだ。