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ツアー中のVESSELが何をもたらしているか

パリのカフェにて

自分にとって現在参加しているダミアン・ジャレ+名和晃平作品「VESSEL」とはどんな存在なんだろうか。ダンサーとして山海塾の作品に匹敵するほど肉体的な酷使があり、なおかつ、アベレージの質を維持するために毎日のルーティンワークを必要とされる作品でもある。
私にとってエモーショナルに動くことをこの作品では不必要なのではないかと感じている、なぜなら、演出家が望むシンメトリーな構造美そして、完璧にディテールまで計算された振付が存在している。もちろん、エモーショナルに動くことで作品に息吹に似た深みが生まれるのではあるが、それはあくまでも客観的に自身を俯瞰し、その上で理性によってコントロールしたエモーショナルな動きである。

このプロジェクトに参加するということはある種、大きな苦痛と嫉妬と戦うことなのかもしれない。ダンサーとしての生涯を送るのであれば、ダミアンの作品に参加することは光栄なことだろう。それほど、彼が望むものは明確であり、ダンサーとしていくつもの壁を越えていかなければいけない作業であり、それに見合うだけの高レベルのダンスをしていることが誰の目から見ても明らかだからだ。

しかし、振付家としての人生を歩む身として、強烈な個性と才能に溢れた振付家と仕事をすることはダンサーとしての喜びとは違い、おこがましくもあるが嫉妬と苦痛を自身の才能と照らし合わせながら歩むことになる。それは尊敬と恐れおののきの含みながらも、自身の才能という器を常に推し測るという苦悩な行為でもある。

山海塾を引退した時もそうだが、才能豊かな振付家との仕事は刺激と喜びがある反面、永遠に続く壁を提示され続ける行為なのかもしれない。そこに残された選択は「続けるか、それとも辞めるか」この2つしかない。