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論文と気ままな備忘録の狭間より

現在は来月提出の修士論文の作成に追われている。しかしこのプラットフォームの運営は「11月30日までに記事を書け」とお構いなく急かしてくる。

11月30日までに記事を投稿すると18ヶ月連続となるらしい。何であれ続けることは素晴らしいことだ。そんな私の信念に漬け込んだ素晴らしいリマインドである。

そのリマインドは気ままに文章を書く感覚を思い出させた。日々の経験に反応しながら書くことを楽しみたい、と思う。

学術的な研究をしていると偶発性や内発性をしばしば忘れてしまうことがある。学問をする際には、何かを証明し得る証拠を可能な限り「客観的」な手法を用いて集める必要があるからだ。そこに「お気持ち」が介入する余地はない。

そこには「自分とは何か」を一旦脇に置いておける点である種の気楽さがある。それはnoteに数多く投稿される気ままな備忘録とは正反対の類の文章だ。

もちろんその間に優劣はない。学術論文で学問的な手続きを追求すると、実社会の複雑さを掬い取れないことはよくある。

一方、気ままな備忘録は主観的なものを数多く盛り込むことができる。私的な告白は個人と個人をつなぐ、と思う。人は他人が自分と同じようなことを経験し、考えていることを知ると安心感を覚えるものだ。

しかし、そのような類の文章はいわゆる「生産性」がない批判を受ける可能性だってある。多少なりとも「自分の感性は豊かだ」といった錯覚に支えられた文章なのだ。

どんな類の文章も一長一短だ。何かを書こうと思えば、何かが書けなくなる。文章の性質に応じて「それはそれで、これはこれ」といった割り切りをする必要がある。

ここにはある種の諦めが潜んでいる。そのような割り切りをするためには、ルールが異なる空間を思うがままに往来できるとの自信や安心感が必要だ。

だから人生で自由であることは何より大切と信じる。ある種の制約を抱えながら、自らのやりたいことを追求する姿勢は美しい。

完。

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