俺も大人になりたかった/響け!ユーフォニアム3 3話

 あらすじは、一期、二期では吹奏楽部の一年だった久美子が、部長になり、全国大会で金賞を目指す話。

 一期でもそうだったが、金を目指すにあたり、最初の関門として、「サンライズフェスティバル」がある。強豪校が一堂に会する場で、五月祭のようなものだが、楽器を演奏しながら、行進も立派にやってのけねばならない点で、文字通り、部として最初に足並みを揃える場でもあるが、そこに色々な問題が生じてくるのが、物語としての醍醐味だ。

 久美子も当然部をまとめ上げていく立場となったのだが、そこで一年生から反発が起こる。それはボイコットというには少人数で、のちにわかるのだが、一人の調略によって、あたかも大ごとのように仕立て上げられたものだから、見た目以上に大ごとではなく、つまり一年生の問題というよりは、一年のうち親友同士の四人の問題で、物語として事態の派手さはないのだが、そこで久美子が初めて部長としての自覚を見せる。話としては、問題を抱えた後輩の家を訪れて、その部屋のピアノ椅子に座って、ベッドに身を立てた後輩の話を聞く。

 一期二期ではやや現実主義なところがあり、それが後輩らしさでも主人公らしさでもあった久美子が、三期に至っては綺麗事をむしろ掲げていて、しかし従来の現実的な目も動いて、それを本心から信じることの難しさ、傲慢さとの葛藤に、部長として悩むのだが、そういうのも含めて自分が部長として皆の受け皿になる覚悟みたいなものが、どこか鷹揚な口調からしっかりと感じられる、第三話であった。

 久美子は朝一番にきて、音楽室の鍵を開ける。そこ鍵を受け取る際に、吹奏楽部顧問の滝先生との何気ない会話が後から効いてくる。教員になり、生徒を導く立場の彼が、自分はまだ子供の延長にいる感じだと言う。続けて、大人か子供かの線引きは、その人の置かれた立場によると言う。そういう意味で、顧問、指揮者として、生徒と同じ立場に立つことのできない滝先生は、どうしても子供より優位な立場にたってしまう、ひいては構造としての「大人」というものの、ある意味「幼さ」のような構造の欠陥を暗に示しているのだとともに、子供としての輪には入れず、「大人」としての役割に徹することを強いられる、物語の構造というものの一種の残酷さについても考えさせられる。

 そして久美子は構造としては「子供」だが、部長としての立場を「大人」のように振りかざさない、つまり彼女の現実主義というものが、温かく作用して、葛藤を抱えた一年生を、部の大切な一人として、その場だけの歯切れのよい説得の言葉は使わず、あくまで久美子の煮え切らない拙さのようなものを認めながらも、全員の受け皿になるという自らの覚悟を、自ら納得いく言葉でなんとか示しそうとしたところに、物語の始まったころからの久美子の成長を感じ、滝先生の言うところの、人間としての、精神としての大人というものを、久美子にはっきりと感じ、安心した一年生の言う通り、視聴者としても頼もしく感じた。久美子ならどんな問題に対しても投げ出さずに、皆の納得いく方法を、泥くさくとも模索していくだろうし、それはどんな大事になっても、久美子を核に物語は破綻しないであろうことの裏返しのようにも感じる。

 三期の一話、二話とみて、感じた不安が、前二作のような、どこか記憶の中にいるような京アニらしい抒情的なぼかしや、心情的な部分のカットというものがあまりなく、陰影をはっきりつけた線画がどこかキャラクターの表情や動きをはっきり見せて個人的には残念に思うところがあったのだが、この三話をみて、それも計算のうちなのだろう、と私はすっかり安心してしまった。というのも、抒情的なぼかしというものは、どこか他人行儀な、受け身な、一年生としての久美子、つまり物語の態度を示すものならば、今度の三期の手法は、他人行儀に浸っていられない、まっさきに向き合うべき現実としての、つまり部長の久美子としての心構え、態度として考えれば、それは当然のように思うのだ。やっぱり京アニはすごい。

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