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割り切りと開き直り

このページを開いてくださりありがとうございます。このアカウントでは不定期で大学生の日々思うことをだらだらと書いていきます。

高校の時、学校の探究授業や様々な高校生向けの課外講座でよく言われたことは「あなたの"個性"はなんですか?」「得意は?強みは?」

一年生の時は言われるままにワークシートを埋めて、自己分析ライクの何かをして最終的には何かしらの答え「私はこういう人間で、ほかの人にはないこういう強みがあります」みたいなものを作り出していたと思う。

でも、その結果には自分自身あまり納得いっていない。授業やワークショップで個性を分析するとき、割り切りが要求されると思っている。そりゃそうだ。今までの人生を振り返って自分の行動原理や好きなことを一言でまとめることなんて無理だもん。

自分の中で驚きのある発見をした時こそ一度立ち止まって考えなおしたい

個人的にこのような"個性教育"には疑問符が付く。個性という一言に自身のことをまとめることへ無理があるのはもちろん、ほかにもいろいろな問題が生まれてくると思っている。

一度決めつけてしまうことで、ほかの情報をシャットアウトしてしまうことはよくある。宗教などは分かりやすい例だろう。一つの宗教を信じてしまったらほかの宗教の情報は全くシャットアウトされてしまう。たとえ自分の信条や生活リズムと宗教の教えが一致していなくても「私はこの宗教を信じている」という決めつけで改宗するという思考が浮かんでこない。個性の場合でもこれは起き得るだろう。成長の早い段階で個性を言語化して思い込みを生み出す個性教育はこのようなシャットアウトを引き起こしてしまう可能性があるのではないか。

もう一つ、言語化した個性が開き直りの道具になっていないかどうか。今学校で行われている"個性教育"では、何でもかんでも他人と違えばそれは個性であり、傍から見た弱みまでも強みであるとしたりする。確かに弱みを強みと昇華させて成功させた人間もいる。その事実はあるとしても全員がそうなれるとは限らない。すべての弱みを個性として認めてしまうと自身の振り返りや成長が阻害されてしまうのではないかと思う。

湯河原にある「夢十夜」というお宿の「本でできた照明」
生活の中に溶け込むデザイン憧れるなぁ

なんというか、教育に関して講釈垂れようなんてことは考えていないが個人的に気を付けたほうがいいと思うことがあるという話である。
いい面でその”個性のようなもの”を伸ばす、活動の動機づけにするのはいいだろうけどそれを言い訳にしている人を見かけることがある。そして、一度決めてしまった個性を決めつけてしまうのではなくて、いつでも振り返ることのできるように柔軟な運用をしてほしいと思っている。
今読んでいる『バカの壁 著:養老猛司』で、「情報は変化しないが人を含めた万物は変化する。毎朝起きた時に同じ自分だと感じられるのは脳が自己同一性を保持しようとする機能があるから。」(要約)と書いてあった。言語化されてしまった個性(変化しない情報)と自分自身(変化する万物)が常に一致するわけないのだ。個性を見つけさせて言語化させる作業というのは絶えず変化する個人を情報化してしまう行為でもある。このような危険性に目を向けて謙虚に生きていきたいですね。

追記:
個性について、バカの壁では以下のように述べていた「画一化を心配するような奴には「あんたと隣の人を間違えるやつがどこにいるんだよ」と声をかけてあげればいい。」と。個性というものはそんなに高尚で絶対必要なものであるわけではないのかもしれない。個性が不動であるという社会全体の勘違いに気づいた教育を希望したい。


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