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私について_8

前回からの続き。自分軸を取り戻す編

自分のwebsiteに載せていた自伝のようなものをnoteで少しずつシリーズものの記事としてアップしています

自分らしく生きる

アメリカから戻った私は、それまでの仕事に違和感を感じるようになった。生活のために出来ることを出来る範囲でやっていたが、本当にやりたいことかと問われると「NO」だった。

かといって、何がやりたいのかもわからず悶々とする日々が続いた。生活は出来るけれど、喜びがない。お客さんには喜んでもらえるけれど、私は心底は喜んでいない。このループから抜け出す必要性は感じていたものの、抜け出し方がわからなかった。

そんな時、ニューヨークの親友の悩み相談にのることが増えていた。
なんとか彼女の力になりたいと一生懸命に話を聞いたが、彼女の人生はスタックしたままだった。

もっと上手に話を聞きたいと思い、その方法を模索していたところ「コーチング」に行きついた。

​コーチングの基礎を学んだは良いものの、実践できるイメージが全く湧かなかった。しかし、私の傾聴力は知らぬ間に向上していたようで、彼女の人生はどんどん好転しはじめた。彼女から「コーチングを学ぶ前と後では傾聴レベルが全然違う!」というフィードバックをもらい嬉しくなった。

私は彼女の悩み相談に対して、コーチングをしていたわけではなく、ただ聞いていただけなのに、何かが変わった。私は、もしかしたらコーチングは自分の持ち味に合っているのかもしれないと思うようになり、本腰を入れてコーチングのトレーニングを受けることを決めた。

コーチングの他にも、やってみたかった事をやり始めた。京都まで染織を学びに行ったり、お琴を習ったり、茶道と華道の稽古も再開した。これまで、起業や子育てのために、切り捨てたものたちを猛烈な勢いで取り戻していった。

染織もお琴も茶道も華道も、お金にならないし、子育ての役に立たないから必要ないと切り捨てていた。でも、それは間違っていた。私の人生を創造するヒントが、そこには沢山詰まっていた。

それらを通して、私の精神性はどんどん磨かれていった。稽古の場に娘を同伴することで、彼女の知性や教養もじっくり涵養されていったように思う。

私は少しずつ、自分の中の「こんな風に生きたかった」「こんな風に過ごしたかった」に許可を出していった。

いのちをいただく


本当にやりたいことを制限なくやってみよう。
そう思って始めたのが染織。糸を染め、織るのが染織。現代の染織工芸は、平安時代の公家文化や安土桃山時代の武家文化、江戸時代の町人文化などによってうみだされた美の結晶である。

きっかけは、何気なく見たNHKの特番だった。
そこに映っていたのは、大きなお鍋に手を入れ、そこから光る糸を出す志村ふくみ先生の姿だった。

直感的に「これは、学びにいかないと!」と思った。

当時、私は人生迷走中であり、自分が何がしたいのかさっぱりわからなかった。そんな中で、ピンと来たという理由で名古屋から京都まで通い染織を学びに行くということは、周りからみたら、頭がイカれているように見えただろう。実際に、母からはかなり非難された。

それでも、やってみた。

​仕事に繋がるのかもわからないし、染織家になりたいわけでもない。それでも、あの光る色の正体を掴まないことには始まらないと思った。

アート畑の端くれとして、どうしても、あの「色」に触れたかった。​

ふくみ先生の手を介すと糸が命を帯びる。そして、ふくみ先生が織るとまるで部屋全体が共鳴したように何かが起こる。​

そこで私は学んだ。染織はHowではない。誰がその行為をするか。その人の内面で何が起こっているのか。それが本質的にとても大切なのだ。これは、何にでも通じることだけれど、どのような在り方で生きるのかはとても大事だ。

​ふくみ先生は、実に実存的な方だ。「いのち」を真に尊重している。だから、植物に対して「染料」などとは思わない。植物に敬意を払うのだ。​

彼女は言う。「染めるんじゃないの。いのちをいただくの」と。​染織を学んで以来、植物の声が聞こえるようになった。たしかに生きている。そして、私たちが気づかぬ速さで成長しているし、私たちよりもずっとクレバーでスマートな存在なのだ。​​この時の経験は対人支援に生きている。

琴とわたし

やりたいことを制限なくやってみようということで染織とともに始めたのが琴である。私の名前は「琴乃」ということで、琴には縁がある。私の母は10代から琴を嗜んでおり、その音色の素晴らしさが私の名の由来である。私が幼い頃は、母は家で弾いていたりもしたのだが、当時は全く興味がなかった。

琴という楽器はもともと、神様とコンタクトをとるために使われた呪具であった。古代では、琴を奏でることにより、現実世界、魂の世界、霊界といわれるような世界をつなぐことが出来ると信じられていた。

私が琴を弾くようになり感じるのは、たしかに、次元の違う世界とつながっている感覚があるということだ。

まず、手で弾くのではない。

全身を使って弾く。そうしないと、そもそも音が出ない。糸と爪が触れて音が出るのと、琴の真の「音」は全くの別物である。

だから、これも染織と同じくHowではない。

誰が、どのような内面世界を包括しながら弾くのかが肝なのである。

親指でポーンと糸をはじくだけで、自分のコンディションがわかる。自分の軸がブレていると、音が出ないし、曲が弾けない。厳密に言うと、楽譜通りに間違えずに弾いたとしても、そこに「いのち」がない。

本当に良いコンディションで弾いた時には、時空が歪む。弾き手も聞き手も一気に違う世界線に入る感覚があり全身に鳥肌が立つ。15分程の曲が30秒ほどに感じられる。

静かに自分と対話をしたいとき、琴が良い相棒になってくれている。

​そして、琴とわたしが「我・汝」の関係になった時、少しずつ何かがほぐれていくのを感じた。

続きはまた明日!


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