私について_7
前回からの続き。起業・子育て・渡米編
起業と子育て
離婚し、実家を離れた私はしばらくは貯金を切り崩し生きていくつもりでいた。
しかし、人生とは面白いもので、ひょんなことからマイホームを建てることになった。
ローンなしで契約。数千万円という現金を全てそこに突っ込んだ。結果、全財産が一瞬にして消えた。
産後・離婚後のホルモンバランスの乱れが影響したのだろうか。
今、振り返ってみても、当時の私の意思決定は極めて大胆だと思う。私は、所持金0だが何故か家だけ持っているという謎のシングルマザーになった。
「金がないなら、稼げばいいだけだ」世界はシンプルに出来ている。
というわけで、私は日銭を稼ぐため、持っているスキルで出来るサービスを作り起業した。
幸いにも大学時代に身に着けたデザインと編集スキルを駆使すれば、グラフィックデザインというものが出来るらしいということがわかった。
そして、私の知識と経験を駆使すればアートのコンサルティングも出来るということがわかった。四六時中、娘を抱っこしながら朝から晩まで、仕事の仕組化とコンテンツ創りに勤しんだ。
奇しくも、同じ時期に母が長年勤めていた実家の会社から突然解雇されるという出来事があった。
母は一時期、気がふれたようになっていたが、母も自分の人生を生きるため起業をするという選択をした。
私は自分の仕事もしながら、母の起業も手伝い、0歳の娘を育てるというカオスな日々が始まった。
ここから少しだけ、母の話をする。
私の母もまた、実の親に翻弄されるという人生を送っていた。
母が実家の会社を解雇されたのは55歳。それまで、母は従順ないい人として生きてきた。
母は自分の親に逆らったことは一度もないという。
自己犠牲的に尽くし続けてきた母の末路は、誤解され何の前触れもなく理不尽な形で解雇されるという残念なものだった。解雇された後も、母は実家との関係で気苦労が絶えなかった。
私は起業したものの、仕事以外の面で周囲から意見されることが増えていった。
私がシングルマザーであることは、一族にとっての恥なのだと感じた。
再婚を勧められ、数えきれないほどお見合いをしたが、満身創痍だった私は日々の生活で精一杯でとても再婚は考えられなかった。
起業後1年ほどの間に、私は何度も過労で倒れた。
幼い娘は重い喘息で、毎月のように救急診療に駆け込んだ。
私も母も娘もヘトヘトになった。他者や世間体のために、身を粉にして頑張ってきたけれど、自分たちは根本的に間違っていたのではないかと思うようになった。
私は自分の母に対して、母は自分の母に対して、内的に区切りをつける必要があった。
私は私。
あなたはあなた。
私とあなたは違う。
私は私の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
私はあなたの期待には応えられないけれど、あなたの幸せを願っている。
私は私を生きる必要がある。そうすることが、私の幸せ。
ゲシュタルトの祈りにも似ているが、自然とこんな境地に至った。
すると、私と母の関係性、周囲との関係性が変化してきた。状況が目まぐるしすぎて、それまでゆっくりと娘と向き合うこともできなかったけれど、少しずつ娘との時間にゆとりが持てるようになった。
アメリカへ
娘が2歳を過ぎたころ、私のストレスは限界に達していた。どんなに仕事を頑張っても、子育てを頑張っても、シングルマザーであることを理由に心無い言葉をかけられたり差別をされることがあった。
こんなにもシングルマザーに対して潜在的な偏見があるとは、当事者になるまでわからなかった。
気にしなければ良いのだが、娘のことまでバイ菌扱いされると、さすがにショックが大きかった。
婦人科系の治療のためクリニックに通っていたところ先生から「ストレスで子宮の状態が壊滅的になっています。
今すぐに全てのストレス要因を排除しないと取り返しのつかないことになる」と言われた。私の中の女性としての命が深く傷ついた感覚になった。
私は診断を受けた後、衝動的にニューヨークの親友に連絡した。
「しばらく、そちらに滞在させてほしい」
全ての仕事に区切りをつけ、2歳の娘を連れ、私はニューヨークに旅立った。
アメリカに入国する際、子連れの長期旅行が珍しかったのか、色々なことを聞かれた。
私は手短に、これまでの人生、出産、離婚、起業、体調不良のこと、この旅行は私の生きる力を回復させることが目的の大切なものであることを伝えた。
すると、担当者は涙ぐみながら「あなたの選択を応援する。ここまで来れてよかった。しっかり休養してね!」と笑顔で通してくれた。
空港には親友が車で迎えに来てくれていた。
真っ赤なVOLVOから颯爽と手を振る彼女がまぶしかった。髪はぼさぼさ、すっぴんの私とは対照的で、恥ずかしかった。
娘は私との旅行が本当に嬉しかったようで、ずっとご機嫌だった。
彼女の家で最初に飲んだビールの味は忘れられない。久しぶりに「生きてる!」という感覚になった。
娘を連れ、ニューヨークの街をよく散歩した。
私はクリスチャンではないが、教会を見つけると入って一番後ろの席に腰を掛け、全体を見渡しながら雰囲気を味わった。
そして、どうか私を助けてほしいと祈った。人に頼るのは苦手だが、神様にはすんなり「助けて」と祈れる自分のことを少しおかしく思ったりもした。
ニューヨークの親友は私のボロボロさに驚愕し、下着から洋服まで「買いなおすべし!」とアドバイスをくれショッピングに連れ出してくれたり、私の好きなARTが堪能できるよう美術館に連れていってくれた。
そうして私は少しずつ回復していった。
1週間もすると、忙しい彼女の家に居候しているのが申し訳なく思えてきて、勢いでカリビアンクルーズに申し込んだ。
カリブ海を2週間ほどかけて周遊するクルーズの旅。娘を連れ、ニューヨークからフロリダに飛び、そこから船に乗った。その選択は、私の人生の中でもTOP5に入る程、素晴らしいものだった。
船に乗っている日本人は私と娘だけ。
乗船中、多くの時間は電波が届かず、地上の人々とはコンタクトが取れない。
あるのは、娘と空と海と風だけ。そして、ともに乗船している人々。船にはプールや広いデッキがあり、そこで娘とよく遊んだ。すると、自然といろいろな人と仲良くなった。
「こんなに可愛い子、見たことない!世界で一番可愛いと思う。この子は世界の宝だよ。こんな子のママだなんて、あなたは幸せ者だね」
日本とは違い、私と娘の存在を全部肯定して祝福してくれる皆の言葉を聞いて涙が溢れた。
世界にはこんなに愛に満ちて温かい人たちがいるんだなと知れて嬉しかった。
アメリカではシングルで子育てをしている人は珍しくないこと、誰になんと言われようと子育ては尊いものだということ、命は何よりも大切だということ、今この瞬間を楽しむこと、色々なことを彼らに教えてもらった。
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