見出し画像

9割の人が知らない!? 浅草のヒミツ 〜浅草六区編〜

こんにちは!余語です。
現在、浅草ツアーガイド、それ以前は人力車の車夫をしていました。最近は、休みの日も浅草をぶらぶら散策しています。浅草に関してはお任せあれ!

今回のシリーズでは「9割の人が知らない!? 浅草のヒミツ」
友人や知人、家族などについ話したくなってしまうような、浅草の知られざる魅力や秘密をガイド視点でお伝えしていきます。


前回の浅草寺編・グルメ編はこちら

今回は浅草の歴史にフォーカスしてお伝えしていきます。
さっそく「9割の人が知らない!? 浅草のヒミツ〜浅草六区編〜」スタートします。

鬼滅の刃に登場する浅草六区

画像6

明治から昭和にかけて日本で一番栄えていた・エンターテイメントの中心地が浅草にはありました。それが浅草六区。
現在は浅草寺の西側に位置する六区ブロードウェイ。浅草演芸ホールや東洋館、ユニクロや競馬のウィンズなどがあります。現在は、このエリア浅草寺や仲見世などに比べるとそこまで人は多くはありません。しかし、このエリア、昭和の初期の時代へ遡ると全く違う光景が広がっています。

スクリーンショット 2022-04-24 16.51.50

※引用https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%8D%89%E5%85%AC%E5%9C%92%E5%85%AD%E5%8C%BA

この写真のように人でごった返していました当時の方の話曰く、ここを横切るのに3分以上もかかったとか。このエリア(浅草六区)は、全盛期の頃は約40件の映画館や芝居小屋が軒を連ねていて、日本のエンターテイメントの中心地でした。今でいう渋谷や新宿みたいな感じですね。当時はいわゆるお決まりのパターンと言うのがありまして、まずは浅草寺でお参り、その後六区界隈の食事処で腹ごしらえをして、映画や寄席、演劇などを楽しみ、夜になったら、キャバレーに行ったり、吉原に流れたり。このあたりでほとんどの娯楽が楽しめてしまうという場所でした。

スクリーンショット 2022-04-24 16.52.40

引用:鬼滅の刃シーズン1・第7話

ちなみに大正時代の浅草六区は鬼滅の刃にも登場します。
シーズン1・第7話の主人公竈門炭治郎と鬼舞辻無惨が初遭遇したシーン。

正式名称は浅草公園六区

スクリーンショット 2022-04-24 16.52.10

※引用:江戸東京博物館

江戸時代この辺りは全て浅草寺の土地でありました。明治時代に入り、江戸時代の身分制度が崩壊し、庶民が主役の時代へと変化しました。それに伴い、新明治政府の政策で寺社や武家の土地が一般庶民に開放される中、浅草寺境内も浅草公園と指定されたんです。1886年4月、浅草寺西側の火除地である田んぼを埋め立てて作った造成地に、江戸から続く町中の諸興行小屋を移転したことにより、このエリアが日本の興行の中心地になっていきました。

明治時代には日本一のタワーが浅草に

スクリーンショット 2022-04-24 16.53.16

引用:https://smtrc.jp/town-archives/city/ueno/p07.html

明治時代、浅草六区には12階建の日本一タワーが建っていました。1890年に建てられ、高さは52mで日本一を誇り、日本初のエレベーターが稼働していました。エレベーターは一年弱で故障して、階段で上までのぼることが多かったそうです。

スクリーンショット 2022-04-24 16.54.17

※引用:アド街ック天国

上り下りを飽きさせないために階段の途中に100人の芸者さんの美人画を飾り、投票で順位を決める「東京百美人」というイベントが行われていました。それが今のミスコンの走りと言われています。また、個人的には好きな芸者さんに投票をするAKBの握手券にも近いかなとも思います。関東大震災で崩れるまでは浅草のシンボルとして多くの絵や写真に残されています。
料金は大人8銭、子ども4銭。明治の1銭は約200円程度で、当時は「もり、かけ、銭湯3銭(もりとかけ=蕎麦)」と言われた時代です。お蕎麦が600円で食べられる時代の1600円ということは、安くはないけれど庶民でも出せるような金額というイメージでしょうか。

最後に...

ここまで読んでいただきありがとうございます。

このように当時日本一栄えた繁華街が浅草にはあったのです。浅草にお越しの際はぜひ浅草寺の西側、浅草六区(現在は六区ブロードウェイ)に足を運んでみてください。

他のnoteも読んでいただけたら嬉しいです。



私が伝えたいこと、それは「世界っておもしろいんだ」ということ。面白かったら是非とも投げ銭感覚でサポートお願いします。