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夏に願いを(5)

お盆の学校閉庁日が明けて『インタイハイ』の日。たった五日ぶりなのに体育館が妙に新鮮な場所に感じて、天井の高さや床のラインが落ち着かない。まるで入部したてのようなアウェイ感覚で準備運動をしながら、僕はまだ迷っていた。確かにコンクールで叶居さんたちの演奏を聴いたときは体がうずうずして、帰ってすぐにマンションの裏で素振りをしまくったし、部活も前よりずっと楽しんでやれていたと思う。

コンクール後の部活で僕を見た平部長が、上級生になる責任感が出てきたか、と嬉しそうに言ってきたのには驚いた。責任感で変わったわけじゃないけれど、心境の変化でどこかプレイが今までと違って見えたのだろう。僕は別に練習メニューを変えたわけでもなかったのに気づくなんて、やっぱり平先輩はすごいな、部員のことをよく見ているんだなと思った。

だけど、時間が経つとあの時の興奮した感覚がだんだん薄れてきて、やっぱり僕なんかが変に頑張っても周りの空気を乱してしまうだけなんじゃないかと考えてしまう。今のまま空気みたいな部員としてバド部に在籍していられることが、平穏で最良なんじゃないか……。

「つぎ金出、頑張れ」
「ありがとう、お疲れ」
「おう」

社交辞令的な挨拶をしてコートに入る。迷っている場合じゃない、こんなんじゃ駄目だ。叶居さんに本気でやるって約束したじゃないか! 周囲の音が煩くて、耳を塞いで目を閉じた。叶居さんのコンクールを思い出すんだ。あの迫りくる音楽の刃を! 巨人の肩に乗れ! あがけもがけ走れ! 祈れ願え叫べ! 叶居さんの失望した声を思い出せ! 

『金出くんはなんでバドミントン部に入ったの?』
『本当に今のままでいいの?』
『ちょっと尊敬かもって思ったのに』

耳にあてていた両手で頬を叩いて目を見開くと、視界はネット越しの相手コートだけだった。ネットの向こう側に立っているのは、ラリーが長引くとアラが出てくる加藤先輩。長期戦に持ち込めれば勝ちが見えるはず。やるしかない。

加藤先輩のサービスから始まり、練習試合にもならないような緩いラリーが続く。僕に対して手加減をしている、というより捌く人数の多さに体力配分をしているようだった。僕とは体力を使わずに勝つ、そういう雰囲気だ。僕は先輩が仕掛けてこない限りは、落さないことだけに集中することにした。次第にしびれを切らした先輩がペースを上げてきたので、僕もついて行く。

白い羽根がネットの上で何度も行き交う。似たような軌道が続くと集中力が切れそうになる。それは相手も同じはずで。加藤先輩は僕とこんなに長いラリーをしたことがないから、だんだんイラついてきたのが分かった。

集中しろ。いつもの緩いペースから外れて心拍が上がってくる。心地いいリズムが体の中心から全身に血液を送り出して、指先までどんどん熱くなっていく。すごく、気持ちがいい。

何往復目か、いよいよ決めにかかった先輩が大きく振りかぶって、鋭く風を切る音と共にシャトルが激速で向かってきた。今の加藤先輩は落とさない僕にイライラしていて、ラリーの集中力もなくなっている状態だから必ず返せる、目よりも耳がシャトルを捉えたと感じた。脚が自然とステップを踏んで腕も伸び、手ごたえと共にシャトルは一瞬でネットの向こう側に飛んだ。僕が返すと思っていなかったのか先輩の反応がわずかに遅れ、白いシャトルがコートに落ちる。審判をしていた平部長が僕の得点を告げた。

記憶の限り、相手の明らかなミスがない場面で僕が三年生から点を取ったのは、これが初めてだと思う。単純に嬉しかった。得点して嬉しいなんて当然のことだけれど、心拍が上がっているからなのか何なのか、踊り出したいほどの喜びが心の奥のほうからせり上がってきた。楽しい! バドミントン、すごく楽しい! 目があった平部長が僕を見て微笑んだ。僕は小さく目だけで頷いて、試合を続けた。

その後も、三年対一年という試合としては善戦したが、なんのことはない、僕はあっけなく負けてしまった。当たり前といえば当たり前の結果だった。何点かは取れたものの同点に持ち込めた場面すらなく、加藤先輩も、池田先輩も、平部長に至っては、まるで歯が立たなかった。最後のほうはレギュラーじゃない先輩に体力の限界でボロ負けして、しまいにはこむら返りで棄権という情けなさ。

誰だよ、本気出したら勝てるなんて思ったやつ。僕だよ。僕は、皆のプレイスタイルや弱点は知っているくせに、本気でやった時の自分を全く知らなかった。相手データしかなくて、勝てるわけがなかった。今日、叶居さんが見に来ていなくて本当に良かった。こんなところ見られたら、また失望されてしまうところだった。軽くなったドリンクホルダーの蓋を開けて最後の一滴を喉に流し込み、カラカラに乾いて涙も出ない悔しさを飲み干した。

「金出、なんで今まで隠してたん」
「ひいっ!」

いきなり、平部長が首の後ろに冷えたペットボトルを押し付けてきた。

「ほい。今日の参加賞」
「あ、りがとうございます」

僕がペットボトルを受け取ると、平部長が隣に座って続けた。

「お前、全員の苦手なとこ、狙ってたよな。偶然とは言わせないぞ」
「え、っと……、見てるのだけは得意というか……、その……、でも、全然勝てませんでしたし……」
「ったり前だろ! 皆お前より真剣に毎日三年間やってきたんだ、簡単に勝てるわけがないだろ」
「で……すよね」
「でもな、そういう目があるやつが部には必要なんだ。気付いてたんなら言えよ」

平部長が僕の肩をバシバシと叩いて大きな声で笑うと、加藤先輩や他の部員もこっちを向いて笑った。誰の声か分からなかったけれど、もっと早く輪に入ってくれたらインターハイも行けたかもよー、とまで言われて、僕は困惑するしかできなかった。

「弱い後輩は弱点とか言っちゃ迷惑かと」
「んなわけあるかー! 仮にもそう思うんなら言えるように強くなれよ。思ったんだろ、もっと本気になりたいって、強くなりたいって、バドが楽しいって。シャトルがそう叫んでたぞ」
「えっ、シャトルが?」
「おうよ。俺が引退したらバド部の目はお前だからな、頼んだぞ」

僕がずっと気にしていたことは、今までの場面とは違って、ここには必要なものだったらしい。嫌われてしまうかもと思っていたことは、平部長という巨人の肩を借りて部の役に立てることだったらしい。

「おい、泣くなって」

参加賞で貰ったスポドリが、飲んだそばから涙になって止まらない。勝てるなんて思った馬鹿な自分に泣けて、もっと強くなりたくて悔しくて、平部長や皆が優しくて、あふれて止まらなかった。

夜、叶居さんから引っ越しの荷造りが終わったとLINEがきた。ボロ負けして悔しかったことを話したら、筋肉ムキムキ笑顔がウザ眩しいアニメキャラのスタンプと一緒に、悔しいのは本気出したからだよ、と返事が返ってきた。

『悔しいのは本気出したからだよ』

叶居さんの声で聴こえた気がした。

叶居さんは明日、この街を離れる。
だけど、また会える。
約束したのは、支部大会が終わった翌週だ。


※この小説はPenthouseの『夏に願いを』を聴きながら書いています。フィクションで、バンドの楽曲の世界観とは必ずしも一致しませんが、もしよかったら楽曲を聴きながらお楽しみいただけると嬉しいです。

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