うさぎやさん

きみが泣かない世界ならいい

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最近の記事

失われていく煌めきに

 愛おしかったことを、数える。同時に、許せなかったことも。  ほんの些細なことでも、私にとってはずっと憶えている愛おしい思い出であったし、同じように、ほんの些細なことでも、私にとってはずっと憶えている許せない記憶であって、どちらも消せることはきっと、なくて。  勝手に傷ついていることが沢山あって、多分相手にとっては本当に小さなことで、気にする私の方がどうかしている、と思うのに、忘れることも出来ない。  それでも、時間が経って思い出すのは愛おしかった思い出ばかりで、これが

    • あの日に戻って

       たとえば、このからっぽを満たせるのがあなただけだとするなら、二度と満たされることはないのかもしれない、なんて。そんな絶望をしている。はじめから希望だってなかったのに、失った痛みを語るみたいに、こんな言葉をこぼしている。  初めて会った日、感じたこと全部忘れたくなくて、ラブレターみたいな日記を書いたこと。好きだという気持ちに蓋をし続けて苦しんだこと。恋を自覚して、あなたを思い返しては何も手につかなかったこと。もう寝てますか、なんて一言を送る勇気が出なくて夜中にじたばたしたこ

      • おばあちゃん

         先月、祖母が亡くなった。82歳の誕生日を迎えようとしていた頃、突然の別れだった。  小学校に上がるまで、父方の祖父母とは向かいの家に住んでいた。母がパートに出ている日には保育園の送り迎えにも来てくれたり、買い物に連れて行っては好きなものを好きなだけ買ってくれたり、事ある毎に世話を焼いてくれた。  両親が離婚し私が母と二人で暮らすようになってからも、時折会いに行っては可愛がってもらっていた。私が中学生になった頃には祖父が亡くなり、その後飼っていた犬も亡くなって、それからこの

        • 痛みを抱える

           これまで誰ひとり取り合ってくれなかったような私のくだらなくて醜い感情にさえきちんと向き合ってくれるところ。とてもやさしくて素敵だと思う。悔しい。  前にも言ったことがある。やさしさは、受け取り手がどう思うかで決まる。私がやさしいと思ったら、それはやさしさだ。打算だとしても、偽善だとしても、そう見せようという恣意があったとしても。だから私がやさしいと思ったあなたを、どうか、否定しないで欲しい。  本当は苦しいし悲しい。何度だって辛くなるし、いくらか無理をしている。こんなこ

        失われていく煌めきに

          この感情を終わらせる

           次にあなたに会えたら、全部話して終わらせてしまおうかと、そんなことを考えている。  少し前はこの愛が伝わればそれでいいなんてゆったり構えていたのに、どうして恋をしていると急に心に余裕がなくなってしまうのだろう。  たとえば、異なった感性を口に出すのが怖くなってしまうこと。  たとえば、あなたがいないインターネットにも慣れてしまうこと。  たとえば、誰かと仲睦まじげなあなたを、そしてその誰かを、憎んでしまうこと。  たとえば、これ以上あなたに嫌われてしまうことが、恐ろし

          この感情を終わらせる

          あなたに

           きっとあなたには届かないのを良いことに、思うままに綴ることにするね。  あなたを、あなたの痛みを、幸福を。分かりたいと思うのは傲慢なのかな。あなたは、そんなこと分かってほしくなどないと突き放すかな。  同じ痛みを抱えられるわけでもなければ、その痛みを全部取り去ってあげられるわけでもない。きっと私にできることなんてほとんどない。それでも、その痛みや幸福を知りたいと思う。こんな気持ちは、エゴだなんて言われてしまうかな。  私は分かりたいと思うことを愛だと思っているし、誰か

          好意の行方

           あ、この恋ってこの先どうにもならないんだなー、なんて、ふと思ったら馬鹿みたいで笑えてきた。  こんなにも好きだけど多分傍から見ればくだらないネット恋愛でしかなくて、私があの人のことを好きだと本気で思ったきっかけだって他人にとってはきっと些細なことに見えて、チョロいとか浅い言葉で形容されて馬鹿にされて。  ずっと抱いていた淡い好意とか、勇気を出して会いに行ったこと、対面するのが怖くて何度も前髪を直したこと、緊張で上手く話せなかった時間、あの人を思って泣いた日、今の不安、恋と

          想定外の恋

           きっと彼が私の気持ちに気がつくことはなくて、この想いを伝える日も一生来ないかもしれなくて、それでいいと思いながらも悔しい気持ちが拭えない。たとえ想いが伝わったとしても私に彼は救えないしどうせいつか互いに破滅してしまう。だからこれ以上深く触れないようにと、そう決めたのは紛れもない私の選択なのに。  ドキドキしながらメッセージを送ったこととか、リップを塗り直して前髪を整えて会いに行ったこととか、あの日からもう恋に落ちていたんだなと思い返しては頬が熱くなる。  彼の言動に一喜一

          傷つけたくないから去る

           生きているだけで誰かを傷つけるこんな私なんて居なくていい。自分のことばを誰かのことばを繰り返し繰り返し反芻して分かったような顔をして、そのくせ誰かを傷つけることに鈍感で想像力の足りない不出来な人間であり続けるなら死んだ方がいい。私などなくていい。読解だけが出来たって人間ではあれない。理性だけがあったって人間ではあれない。  私は私の言葉が誰かを傷つけることを知らなくて、いつだって尖った爪や牙にも気付けない。恵まれていることに無自覚な人間は無害なようで時折物凄く人を傷つける

          傷つけたくないから去る

          悪夢を見て恋と知る

           大好きな人が出てくる悪夢を見た。  どうしてか夢の中のその人はわたしのそばにいて、私の好意を知っているのか猫のように甘えてきて、だけどあるきっかけでその人は自分がとある人物(かつて私が好きだった活動者で、男女関係に問題があると噂されていた)であることを明かし、化けの皮が剥がれたように性欲をあらわにして迫ってくる。私は魔法が解けるみたいに気持ちがスッと冷めて、そういう目で見られていたのか、最初からそういうつもりだったのかと絶望する。そこで目が覚めた。  泣きながら目を覚ま

          悪夢を見て恋と知る

          「彼氏」「彼女」と呼ぶこと

           「彼氏」「彼女」という表現に違和感がある。例えば私が誰かの「彼女になりたい」というのは、相手が私のことを女性として見て女性を好きになるという前提の言葉であるような気がしてしまう。そういう意味で私は別に彼氏という立場になってもいいと思っているし、極論どちらかに定めてしまうのがなんだか違うような気がする。というか、彼氏とか彼女とか、分ける必要があるのかが疑問である。  だけど別にそれは、私の性自認に違和感や揺らぎがあるということでもない。生物学的にも、自認も、私は女性であると

          「彼氏」「彼女」と呼ぶこと

          20歳、シルバニアデビュー

           ついにシルバニアユーザーになった。  大人の間でシルバニアファミリーが流行し始めて数年、周りの人間がこぞってシルバニアの赤ちゃんを持ち歩くのを眺めながら、今日までお迎えすることなく生きてきた。流行りに乗るのが少し苦手で、みんなが持っているとなんだか持ちたくなくなってしまう逆張り精神もあったと思う。  別に可愛いと思わないわけではなかった。Instagramのアイコンを使用フリーのシルバニア写真にしていたこともあるし、他人の撮った写真を眺めていたこともある。だけど幼少期から

          20歳、シルバニアデビュー

          優しいあなたに

           優しい人には、あなたは優しい人だと伝えるようにしている。  大抵、優しくないですよ〜とか本当は性格悪いですよ〜とかそんな言葉が返ってくるし、私も同じように言われたらきっとそう返してしまうと思う。だけど、優しさとは、他人が優しさだと感じたらそれで成立するものだと思う。  どんな打算があろうと、腹でどんなことを考えていようと、そのことばを、行為を、受け取った人が優しいと思えばそれは優しさだ。そう思っているから、あなたの優しさが好きですと伝えることだけは、怠らないようにしている

          優しいあなたに

          無題

           言葉を紡ぐことは心を整理すること。どうせいつもと同じことしか書けないけれど、それでもいいとnoteを開く深夜。3時を過ぎた。  音楽は救いだけど私のような人間を救う音楽はそう多くないのかもしれない。今日は何も響かない日。これまで私に合うとか心情にぴったりとかで他人から貰った音楽をリストにしているので、それをずっと流している。音楽そのものが救いでなくてもこれが他人が私を思って選んだ音楽である事実がこの死にたさも和らげてくれる、きっと。  他人に貰った音楽はあまり人に教えな

          「10数年前の僕たちへ」

           先日開催されたAfter the Rainのライブを通して思ったことと、ツアータイトルにもなっているアルバム「アイムユアヒーロー」の話を中心に、あの日教室のドアの重たさに足を止めては逃げていた私がどうしようもなく救われていたまふまふという人間の音楽と、共に生きた「10数年」の話をする。  私が彼に出会ったのは十年以上前、小学生の頃。ボカロや歌い手という文化に触れ始めて彼を知った私は、その後レンタルショップで借りてきた「明鏡止水」という一枚のアルバムをきっかけに、まふまふの

          「10数年前の僕たちへ」

          愛の表明

           優しいことばを紡げる人は、それだけ痛みを知っている人だと思う。だからこそ、私はそんな人に触れることができない。私は人に優しくなれないから、優しい人を大切にできない。  ずっと、と言わずとも一日に何度もその人のことを考えてしまって、恋かもしれないと期待をしたりするけれど、多分これは恋ではなくて、愛である。人間としてあまりに愛おしくて、私がその人の心に触れることはきっと叶わない。きっと私はいつかこの手で傷つけてしまうから、私の手に触れられないところで幸福に生きていて欲しい。