永遠の命を得た魔法少女
『魔法少女まどか☆マギカ』は、現代の神話のようにわたしは思います。
もし、遥か大昔に神話を描いた人が、現代でも神話を作ろうとするならば、まどマギのような神話を作るのではないでしょうか。
ただ、わたし自身、べつに神話に深い造詣があるわけではないので、あくまでこれは、わたし個人の感覚の話になります。
根拠らしい根拠はありません。
強いて言えば、まといのばのブログの一文です。
(引用開始)
まどマギという神話はそれを残酷なまでに美しく教えてくれます(本当か?w)(まあ神話というのはどんなものでもそうですが、読み解く人がいない限りは読めないものです。聖書もしかり)。
(引用終了)
まどマギにおける鹿目まどかとは、どこにでもいるような、ごく普通の少女です。
とはいえ、そもそも普通の少女なんていないのかもしれません。
みんなどこかしら変わっていて、まどかもまた、人とは違う部分がたくさんあります。
そういう意味でいえば、『どこにでもいるような、ごく普通の少女』とは、人が生きている世界には存在しないのかもしれません。
矛盾しているようにも感じます。
けれど、わたしが鹿目まどかを普通と形容したのは、彼女には特筆すべき個人的特徴がなかったから、と言えます。
鹿目まどかは、どこにでもあるような、平凡な人生を生き、平凡な悩みごとを持ち、平凡な願いを抱いています。
人生のパターンやら悩みのパターンが、大多数の人々と共通しており、だからわたしは、彼女を“普通”と称したいと思ったのです。
まどかと、ほか大多数の人々に共通する問題とは、シンプルに、エフィカシーの低さだとわたしは考えています。
まどかとエフィカシーの関係については、まといのばのブログで解説されておりますので、そこから引用させていただきます。
(引用開始)
エフィカシーが低くて自己犠牲が美しいと勘違いしているバカは社会の迷惑だというテーマの映画です(違うかもしれない)。
かわいらしい魔法少女も時間が経てば美魔女になるという話です(全く違う。それはリアルの話です)。
ほむらはまどかに執着しすぎで、「その在り方が魔境でしょ」って思いますし、まどかは無駄に悩み、無駄にエフィカシーが低く、台風の目のようです。
自分は何もしていないのに(無風なのに)周りを混乱に巻き込みます。死者も多く出します。無駄死にです。
(中略)
The most human humanでも言及されていましたが、人間の人間らしさは人格の統合です。皮肉交じりで言うならば、それをプログラムするのは簡単で、異常な不当なエフィカシーの低さをそれに伴いCreative Avoidanceとセルフハンディキャップを登録しておけばいいと思います。
「私なんかでも、本当に何かできるの?」とつぶやかせておけば、立派な人間らしいAI(人工知能)の完成です。
「私って、昔から得意な学科とか、人に自慢できる才能とか何もなくて」
「きっとこれから先ずっと、誰の役にも立てないまま迷惑ばかりかけていくのかなって」
「はい、私なんかでよかったら」
「あのね、私、何もできないし、足手まといにしかならないってわかってるんだけど」
と次々とスクリプトは自動生成されます(引用はまどか☆マギカより)
(引用終了)
まどかの最大の問題は、自分に自信がないことです。
自分は生きてていいんだ、という自信がないことに、彼女の問題があるとわたしは思ってきます。
自分で自分を責めているのです。
わたしは、鹿目まどかを見ていると、どうも呪術廻戦0の乙骨憂太が重なってしまいます。
瓜二つに見えます。
(引用開始)
繰り返しで恐縮ですが、呪術廻戦0における乙骨くんの「誰かと関わりたい。誰かに必要とされて、生きてていって自信が欲しんだ」に我々が心を動かされるのは、我々の成分の中に乙骨成分があるからです(←意味不明)。共感できるからです。
自分自身も、誰かと関わりたい、誰かに必要とされたい、生きてていって思いたい、と感じているからです。
(引用終了)
まどかもまた、乙骨のように「誰かと関わりたい。誰かに必要とされて、生きてていって自信が欲しんだ」という願いを抱いて、魔法少女になりたいと願ったのかもしれません。
しかし、その穴はきっと、外部の存在によって埋めようとしてはいけないものです。
まどかの「他者のためになりたい」という願いは、一見素晴らしいものですが、その内側には醜いエゴがあるように、わたしは感じます。
「誰かに認められたい」というエゴを用いて、誰かの役に立とうとする者は、根本的に自分のことしか見ていません。
厳しい言い方をするのであれば、自分の願いのために、他者を利用しているのです。
まどかも、乙骨も、自らの心の穴を埋めるために、誰かの役に立とうとしています。
でも、本当の意味で、自らの穴を埋めるためには、自信を持つためには、本人が認めてあげるしかないと思います。
外部に根拠を求めるのではなく、無根拠に「自分は生きてていいんだ」と思わなくてはなりません。
その際に、苫米地博士が解説してくれる「縁起」の概念が有効だと、わたしは思います。
(引用開始)
人は対人関係に自信をなくしてしまうと「自分なんて、この世の中にはいてもいなくても変わらない存在なのだ」とマイナス思考に陥ってしまいがちです。
しかし、この「仮観」の思考をマスターしていたら、そんなことにはなりません。
あなたは必ず、誰かとの関係性の中に生き、誰かの役に立っているはずであり、「存在意義」がある。そして、あなたが自分に自信を持ち、積極的に世の中とのつながりを拡大していけば、宇宙にまであなたの存在意義は拡大していくことでしょう。
そうなれば、あなたはもう決して、孤独で寂しいと思う必要はなく、人間関係で思い悩むこともないし、逆に悩んでいる人の役に立つような人物になれるはずです。
(引用終了)
乙骨もまどかも順序が逆なのです。
自分の存在を認めるために、誰かの役に立とうとするのではありません。
まず、自分の存在を認めてから、それを拡大していくことで、誰かの役に立とうとするべきなのです。
そうでなくては、本人も、周りの人も、救われません。
台風の目のように、周囲に大迷惑をかけて終わりです。
まどかは作中で、魔法少女の厳しい現実に直面したことで、魔法少女になることを躊躇します。
しかし、もし、まどかが真に魔法少女として誰かの力になろうと決意したならば、恐れながらも魔法少女になることを決意したはずです。
それが、機能を果たす、ということだと思います。
「自分になにができるの?」と無駄にエフィカシーを低くして、袋小路に迷い込むくらいならば、
そんなことを考えずに、自分に役割があることを確信し、求められていることを、ただ粛々と果たすことを考えていけばいいのかもしれません。
(引用開始)
というか、シンプルにエフィカシーなどいらないと思うことです。
エフィカシーではなく、いまここでどのような機能を世界に(社会に、宇宙に)果たすことができるかを考えることです。
そのとき自我は消えます。自我はただの重りでしかなく、自己を虚しくして(それは安い自己犠牲とは正反対です)、相手の中に入り、相手のゴール、相手の痛み、絶望を自分のものとすることです。
というと安いスピリチュアルのようですが、先日も紹介したヴィクトール・フランクルの言葉です。
(引用開始)
人間は、「自分のしたいこと」をするのではなく、自分のことを忘れ、「誰かのために、自分ができること」を全力で行う方が大切である。
そしてそれこそが、生きる満足を感じるための、唯一の道である。
(引用終了)
イエスはそれをシンプルに隣人愛、黄金率としてまとめています。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。マタイ22:39
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。マタイ7:12
https://ameblo.jp/matoinoba/entry-11384967376.html
(引用終了)
結局のところ、必要なのはゴールです。
そして、ゴールとは、どうすれば目の前の人の役に立てるかを、真剣に考えることで生まれるものだと思います。
そして、その目の前の人の範囲を広げていくことで、より抽象度の高いゴールになるのではないでしょうか。
(引用開始)
ゴールとは「他者」のことです。ゴールそれ自体が他者を前提とします。ゴールや夢は他者との関係性の中でしか存在しません。ですから、「さびしくない」すなわち「他者が不要」なとき、それが「死」だと思います。死ねばその人の宇宙は消え、ビッグバンも消えます。
(引用終了)
ゴールが見つかれば、自ずとエフィカシーは上がります。
まどかもまた、裏技で抽象度を上げ、ゴールを見つけたことで、エフィカシーが上がりました。
あのクリエイティブ・アヴォイダンスとセルフハンディキャップに塗れた発言が消え失せたのです。
それでは、まどかは一体どうすることで抽象度を上げたのでしょうか?
その答えは、過去のあらゆる魔法少女の悲劇を観て、理解したことによって、です。
過去の魔法少女がどのような願いを抱き、どうやって世界を変え、歴史を進め、そして呪いを振り撒くようになったのか。
それを、魔法少女の契約者キュゥべえを介して、見つめたことで、まどかの抽象度が猛烈に上がりました。
その瞬間、自分や友人に降り掛かった悲劇を「ひどいよ! こんなのってあんまりだよ……」と涙を流して、目を瞑ろうとした少女は、どこかに消えてなくなったのです。
そんな彼女を見ていると、わたしはお釈迦様を思い出します。
以前の記事でも引用させていただきましたが、また一度まといのばのブログを引用させていただきます。
(引用開始)
『テーリーガーター』の第51偈です。
ジーヴァーという娘を亡くして泣き叫んでいるウッピリーという母親に向けてこう言います。
(引用開始)
母よ。
そなたは「ジーヴァーよ!」といって、林の中で叫ぶ。
ジーヴァーという名の八万四千人の娘が、この火葬場で荼毘(だび)に付せられたが、それらのうちのだれを、そなたは悼むのか?(引用終了)(『尼僧の告白』p.19)
ここに「抽象度を上げる」ことの肝があるように思います。
単純に視点を上げていくだけにとどまらず、必ず具象的なものとの強いリンクがあるのです。
ふわふわと遊離したカタチの抽象概念をもてあそぶのではなく、カタチも重さも重力もある具象的なものとの強い関係が残るのです。
ここで母親が自分の娘の名を呼んでいることは自明です。
しかし母親の言動だけを虚心に観るならば、84,000人のどのジーヴァーに呼びかけているのかは決定不能です。我々が分かったつもりになれるのは、そのコンテキストを深読みしているからです。
そして釈尊の指摘によって、84,000人の娘がここで荼毘に付され、そしてその娘の死を悔やみ、泣き叫ぶ多くの母親がいて、父親がいて、兄弟姉妹がいて、友人や知人がいたことが容易に想像できます。その悲痛の総体が重くのしかかってきます。
特に自分が苦しんでいる最中だけに、彼らの苦しみを自分のものとすることができます。
そのときに84000通りの哀しみの共同体を俯瞰し、俯瞰しつつも、その一つ一つの痛みを感じることで、自らの抽象度が一気に上るのです。
そのときの抽象世界というのは、ダイレクトに物理世界と結びついています。
(引用終了)
まどかもまた、魔法少女の苦しみをひとりひとり自分のものにしたことで、一気に高い抽象度が上がりました。
(ここから先は終盤のネタバレが含まれますので、ご注意ください!)
そして、まどかは、すべての魔法少女を呪いから救う、という自分だけのゴールを見つけます。
まどかは、過去現在未来を通して、ありとあらゆる魔法少女を呪いから解放することを決意したのです。
「神様でも何でもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる、変えてみせる」
鹿目まどかは、あらゆる魔法少女を救うために、宇宙を再構成して、ひとつの概念と成り果てます。
魔法少女を救う概念として、永遠に戦い続ける運命を背負います。
それは、人間としての鹿目まどかの存在の抹消を意味し、まどかの生きた記録はすべて消去されます。
家族も、友人も、誰も、まどかの存在を忘れてしまうのです。
それは、悲劇です。
しかし、わたしはそれを安い自己犠牲とは思いません。
僭越ながら、鹿目まどかの最後は、福音書の麦の一説につながるように感じます。
(引用開始)
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。(ヨハネ12:24-25)
(引用終了)
友人や家族と別れることは、悲しいことです。
しかし、わたしたちは、どう足掻こうともその事実から逃れることはできません。
ほんとに重要なのは、どれだけ長く生きたかでも、何を得ることができたかでもなく、なにを遺すことができたかではないでしょうか。
そこに、本質的な喜びと、永遠の命が宿るように、わたしは思います。
まどかの最後もまた、悲しみも絶望もあり、そして、それを超える深い喜びがあったと思います。
そうして、まどかは、どこにでも宿り、どこにでも在り、どこにも干渉しない、汎神論的な神となりました。
ゆえに、わたしは、まどマギとは現代の神話だと思うのです。
普通の少女が永遠の命を得る神話。
そして、それはフィクションではなく、フィクションよりもリアルであり、わたしたちの人生のすぐ向こう側にあると思います。
とてもすぐ近くにあり、しかし誰もが見落としてしまうもの。
それを物語によって伝えてくれたのが、まどマギの鹿目まどかなのではないでしょうか。
永遠の命とは、シンプルに自我を殺して、他者のことを考えることで、生まれるものなのかとしれません。
それでは、また。
またね、ばいばい。
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