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たとえガラス越しでも、声を聞きたいし、触れ合いたいのです

 昔読んだネット小説を最近ふと思い出しまして、また読み返してみたのですが、これが猛烈に面白かったんです。
 過去のわたしにも刺さりましたが、今のわたしにこそ刺さる作品のように思えて、ほんと感謝しかありません。 
 ありがとうございます。
 
 できたら、あなたとも共有できたら、と思いましたので、紹介させていただきます。
 
 以下より、タイトルとあらすじを引用します。
 
(引用開始) 
 
クソゲー配信で、大人気Vtuberになってもいいんですかっ!?

作者:端桜了/とまとすぱげてぃ
 
 ――クソゲーと云ふは、死ぬことと見つけたり。

 チャンネル登録者数7人――底辺Vtuberの白亜《はくあ》湊《みなと》は、VRMMOの配信が大人気であるという噂を聞きつけ、再起をかけたVRMMO配信を始める。

 だが、そのVRMMOは、まごうことなきクソゲーだった。

 そのクソゲーの名は、ファイナル・エンド。

 『最クソ』、『ソドム』、『PTSD』、『カスダナーサービス』、『幼少期に見る悪夢』、『サバト』、『日本のクソ心』、『悪党の義務教育』、『赤ん坊に見せたら泣き死んだ』、『Welcome to the KUSO』……数多の異名をもつそのクソゲーは、理不尽極まりない死にゲーでもあった。  
 だが、ミナトは、ハウジングボム、初心者《ビギ》狩り、奴隷券発行《プリチケ》、炎上(物理)といったテクニックを用いて、クソゲー道を駆け上がっていく。

 果たして、ミナトは、このクソゲーを完全攻略し、大人気Vtuberとして再起できるのか!?

 どうか、このクソゲーに花束を。 
 
https://ncode.syosetu.com/n2298gp/

(引用終了)
 
 あらすじだけ見るとふざけた作品ですし、内容もふざけた作品なのですが……ネタバレすると、かなりシリアスな作品です。
 
 序盤は、ただ主人公のミナトがクソゲーの理不尽を面白おかしく、外道な戦法とプレイヤースキルで乗り切る話で、ケタケタ笑いながら読み進めます。
 
 しかし、中盤から突然、デスゲームから始まります。
 
 ミナトと他多数のプレイヤーは、突如として、ゲームの世界に閉じ込められるのです。
 その行動の裏にある目的は、GM・アラン・スミシーの妹をゲームの世界で甦らせること。
 
 アラン・スミシーの妹はかつて、通り魔のレイプ犯によって、理不尽に殺されてしまいますが、アラン・スミシーは、その当時の妹の記憶データを、ほぼ完璧にコピーすることに成功しました。
 
 しかし、いつまた、妹が理不尽に晒されるか、という危険を無視できなかったアラン・スミシーは、決して妹が理不尽に晒されることのない、虚構の世界を創り上げることを決意します。
 
 妹が神となった完璧な虚構の世界。
 
 その世界を創り上げ、妹を神へと押し上げるために、(理由は省きますが)ミナトの脳という演算装置を必要としたのです。
 
 そして、アラン・スミシーの妹は、ミナトにとっても大切な少女でした。
 ミナトは、コピーされた妹のため、そして現実に帰還するために、アラン・スミシーと戦うことを決意します。
 
 しかし、突然、ミナトは死んだハズの母親や婆さん、大切だった彼女がまだ生きていた過去を模した、虚構の世界に閉じ込められてしまいます。
 
 そこでは、母さんが生きていて、目と目を合わせることも、他愛もない話を交わすことも、一緒にゲームをすることもできる世界なのです。
 
 もう二度とできない、と諦めていたことが、できるの世界なのです。
 
 虚構です。
 フィクションです。
 そう分かっているのに、そう分かっていても、ミナトはいなくなった母さんたちと過ごせる日を、強く求めます。
 
 現実に戻れば、母さんたちと会うことはできない。
 でも、この虚構の世界であれば、ずっと一緒に過ごすことができるのです。
 難病で亡くなった母を、救うことができるのです。
 
 ミナトは、その甘美な誘惑に耐えることはできませんでした。
 
 
 
 この物語で面白いのは、最初から虚構だと分かっている点だと、わたしは思います。
 
 虚構だと分かっていても、この世界はすべて自分の記憶が作り出しているのだと理解しても、なお仮想世界は現実世界よりも現実で、現実よりも魅力的なのです。
 
 
(引用開始)
 
 言うなれば、僕は、今、録画された過去の羅列を眺めているに過ぎない。既に取り戻せない何かを、過去に浸ることで、取り返そうとしている。

 でも、無駄だ。録画された思い出は、瞳に映ることしか出来ない。

 全部、なにもかもが幻だ。

 でも。

 ――コレは、虚構ゲームじゃない

 取り返せるとしたら。

 ――現実と虚構の境目は消え失せた

 この世界を、僕が、現実として認めることが出来れば。

 ――世界の繋ぎ目が、お前の目にも映ってる筈だ

 僕は――瞳に母が映る――やり直せるのか?

 この世界なら、母の身体に巣食う病魔を殺して、この女性ひとと一緒に10歳からやり直すことが出来るのか。
 
(引用終了)

 
 
 このミナトの感覚というのは、わたしたちにも重なるように思います。
 認知科学でいうと、わたしたちの生きる物理的現実世界は、フィクションです。
 
 すべてがフィクションです。
 確固たる現実世界、というのは幻想なのです。
 
 フィクションを現実だと認識できる脳を持っているからこそ、わたしたちは小説や映画などのフィクションを、現実のように感じて楽しむことができます。
 
 だから、そういう文脈に則るなら、ミナトが仮想世界で10歳からやり直すことも、本人が現実だと認識すれば、それも現実になるのでしょう。
 
 でも、どうしても引っかかってしまいますよね。
 その選択は、果たして正解なのだろうか。
 本当にミナトは幸せになれるのだろうか。
 
 そう問わずにはいられません。
 
 なぜでしょう?
 
 わたしの先生のブログの内容を共有できると、その引っ掛かりの正体が見えてくるかもしれません。
 
(引用開始)
 
苫米地理論では物理宇宙は寂しいからできたのだとされます。情報状態で好き勝手生きていると最初は自分の思い通りで楽しいのですが、そのうち飽きて来て、隣の生命や人間と戯れたくなります。

その公共スペースとして物理空間を生み出し、僕たちはそこでモーダル・チャネル(5感+言語)を介して交わります。

(引用開始)
体を失い、情報状態だけになった人類にとっての宇宙というのは、その人が好きなものだけを集めて勝手にストーリーをつくり上げたものです。そして、自分が主人公となり、隣の生命、隣の人間とは何の関係もないまま長年を過ごしているとどうなるか。

次第に飽きてくるのです。

すべてハッピーエンディングの、すべてを自分でコントロールできる世界なんて面白くないじゃないかと思うのです。そして、それ以外のストーリーを求め始める。
もちろん、いろいろなバラエティをやってみるのですが、それでも最後に人間は思い至ることになります。「でもこれって、全部自分がつくった情報だよね」と。
それゆえに、寂しいことだと気づくのです。
寂しいから、の結論として抱く思いは特別なものではありません。
「みんなの公共スペースをつくろう。マトリックスをつくろう」
ただし、だれも自分以外の人の存在に対してコントロールをせず、お互いが本当に独立した存在としていられる空間を作ろうとするのです。
もちろんそこにはインタラクション(相互作用)は必要です。例えば、データの書き換えはやめよう。要するに魂や遺伝子を書き換えるのではなく、お互いのインタラクションは五感だけに限ろう。超能力通信も、それはデータとデータの交換だから許さない。
そういう空間をつくろうというコンセンサスを成り立たせ、それを物理空間と読んだのです。
言い換えれば、物理空間はみなの共有スペースとして生み出されたということです。
そして、そのためにビッグバンが起こされたのです。
今ある宇宙は、共通空間、あるいは公共空間としての宇宙だということです。
なぜ、宇宙が生まれたのか。寂しいからです。
それが未来から見た今なのです。ホーキングは時間を逆に見ていたから理解できなかったのではないでしょうか。
未来から過去に時間が流れるというその論理的な結論として、寂しいから、みんなのプレイフィールドが欲しくてビッグバンは起こったのです。
(引用終了「苫米地英人、宇宙を語る」p.p25−28)

 
ユダヤ・キリスト教に基づいた「過去から未来へ時間は流れる」という洗脳からの脱却として、苫米地理論では「時間は未来から流れる」とされます。未来の完全な情報状態に飽きて寂しさを感じた僕たちが、他の存在と交わるために物理空間を作り、現在に降り立って来たとも言えます。

人類全体の機運として、ドンドン自我を(記憶を)サイバー空間にアップロードし、またメタバースの技術の発展により、ますます自分だけの情報空間に戻ろうとしているように思います。苫米地理論の未来から時間は流れるという議論と、その未来においては情報状態になって漂っているということを踏まえると、さもありなんと思います。
 

 
(引用終了)

 
 もし、あらゆる可能世界の中から、わたしたちが生きるに値する世界を抜き出すのなら、それは、人と人が繋がれる世界なのだと、わたしは思います。
 
 それが、みんなの共有スペースとしてつくられた物理空間なのです。
 物理空間においてのみ、わたしたちは極めて不便ながら、自ら以外の人と関わることができます。
 
 そこに、本質的な喜びがあるのではないでしょうか。
 
『クソゲー配信』は、現実とフィクションの対立を描いた物語ですが、現実とは人と人が関わる世界であり、フィクションとは人との関わりを排した世界として、描写されています。
 
 つまり、この物語は、人と関わり続ける人生と、人と関わらない人生の対立でもあるわけです。
 
 人と関われば、さまざまな理不尽に遭います。
 主人公のミナトも、父は不倫で家を出て、母が病気で死に、恋した少女は殺され、誰にも頼れず、天涯孤独になる、という理不尽のフルコンボに遭います。
 
 もし、人との関わりを完全に排し、なんでも自分の思い通りにできれば、理不尽なんてありません。
 どんな悲劇も回避することができます。
 幸福な人生を送れるでしょう。
 でも、それは人形遊びに過ぎないのです。
 
 ミナトが祖母のように思っていた、友達のお婆さんは、死ぬ前にこんな言葉をミナトに残しました。
 
(引用開始)
 
「あんたが視たい世界だけ視れば、それはもう、あんたひとりの世界よ。そこには、もう、あたしも葵ちゃんもあんたのお母さんもいない。ゲームと同じじゃあ。ボタンを押して、決められた通りに動く。あんたの作ったゲームをあんたがプレイして、気に入らないところがあれば好き勝手に直して進める。
 そんなもん、続けて、なにが楽しい?」
 
「あんた、ゲーマーじゃろうが」
 
「なら、わかるじゃろうが。そんなもん、終わる頃には、虚しくなる。あんたひとりのための世界に、あんたはきっと耐えられんよ」
 
(引用終了)
 
 ひとりの世界に閉じこもるのは、たしかに楽です。
 そこには、理不尽がありません。
 すべてが、自分の思い通りになります。
 
 同時に、奇跡もないのです。
 
 人との出会いは偶然であり、双方向の人との関わりが予想外を生み出します。
 それがプラスの出来事であれば、人は『奇跡』と呼ぶのではないでしょうか。
 
 思うに、物理世界とは、MMOなのです。
 
 1人用RPGであれば、なんでも自分の思い通りにできます。
 好きにレベルを上げて、好きなNPCを仲間にして、好きな武器を手に入れて、好きなタイミングで魔王を倒して、ハッピーエンドを迎えることができます。
 
 でも、そんな予定調和は、ずっと続けていると、退屈なのです。
 虚しくなりますし、寂しくなります。
 
 だから、ゲーマーは、みんなで集まって遊ぶことができる場、MMOを求めたのです。
 そこでは、自分のエゴだけを優先すれば失敗します。
 ゲームを攻略するためには、仲間と時間や予定を調節しないといけませんし、戦いは仲間と連携しないといけませんし、モンスターを倒しても、ドロップアイテムとコインを分け合わないといけません。
 
 思い通りに行くことなんてほとんどなくて、ひとりで遊ぶよりずっと難しくて、でも、そのためにゲーマーはMMOに集まったのです。
 
 そして、未来のわたしたちもまた、人と関わり合うことを選んだのです。
 たとえ、目の前にいる人間のことを永遠に理解できなくて、お互いに分かった気になれるだけだと、知っていたとしても、それでも人と関わり合うことを選んだのです。
 
 ほんの少しだけでも、人と繋がれた気になれたら、とても嬉しいから。
 
(引用開始)
 
「誰だろうな、最初に『逃げるな』なんて言い出したのは……誰も、互いの苦しみなんて、わからないのに……現実逃避を悪だと決めつけたクソ野郎は、どこのどいつなんだろうな……レアの言う通り、きっと永遠に、人間ひと人間ひとが分かり合うことはない……でも、だからこそ……たまに……」
 
 
「分かり合えた気がすると嬉しいんだ」
 
 
「一生、すれ違い続けるだろうな」
 
「傷つけ合って、誤解して、互いに互いを嫌い合うかもしれない。
 でも、それでも」
 
人間ひとは――繋がり合うんだ」
 
 きっと、分かり合えない。

 人間ひとは、永遠に、傷つけ合うだろう。アラン・スミシーの理念に従って、集団を個人に統一し、同一の人間にでもならない限り……人間ひと人間ひとは、互いに互いを損ない合うだろう。

 でも、人間ひと人間ひとは繋がることが出来る。

 MMOだ。

 大多数の人間が、同じゲームをプレイして、すれ違い合いながら遊ぶ。

 縁は、繋がる。

 ボクらは、繋がっている。

 悪い意味でも、善い意味でも。

 ボクらは、繋がって、未来さきに進み続ける。

 同じ現実クソゲーをプレイする。

 ボクらは、互いの配信画面を視ているような存在なのかもしれない。画面を通して、互いに分かり合っているフリをする。でも、実際には同じ現実を生きていない。人間ひとは、人間ひとを理解出来ない。

 その薄い繋がりの中で、誰かと巡り合うのは奇跡のように思える。
 
(引用終了)

 
 わたしたちは、きっと、心の奥底では、他者との繋がりを求めているのです。
 
 人は、互いの配信画面を見て分かった気になれるだけで、その画面を操作する人間が、本当は何を考えているのか分かりません。
 それを理解していても、それでも、わたしたちはそれを求めてしまうのです。
 
 深く繋がりたいと願っているのです。
 たとえ、深い繋がりなんて、現実には存在しないとしても、求めずにはいられないのです。

 だって、わたしたちは人と関わり合うために、この宇宙をつくったのですから。
 
 だから、ミナトも、仮初の母と共に生きられる仮想世界ではなく、理不尽が蔓延っても、人と繋がることのできる現実世界を選んだのです。
 だって、その世界でないと、ミナトは、母さんと会うことすらできなかったのですから。
 
 最後に、わたしの先生のブログの一文を引用して、締め括らせていただきます。
 
(引用開始)
 
最初は一人一宇宙に閉じていると何でもできて楽しいものです。めくるめく美女や美男と遊んだり、映画に主演として出たり、アーティストのように大観衆を熱狂させたり、テニスのウィンブルトンで優勝したり、パリ・オペラ座の舞台で踊ったり、自分一人の閉じた妄想だと何でもやりたい放題です。

だけどそれもしばらくすると飽きてきます。全部思い通りなんてつまらなくなります。

そのとき僕たちはその「寂しさ」を自覚し、その寂しさから逃れたくなります。そのときに立ち現れるのが、他者の存在です。

自分以外の宇宙が存在することを認め、ときに彼らの力を借り、ときに自分の得意技で彼らに機能を果たすことで、その瞬間は「寂しさ」を一瞬忘れられます。その一瞬は永遠のように感じますが、実際のところ永遠は短い。

なのでまたあの瞬間を味わいたいとより高度な機能を果たしたいと願い、僕たちは能力の輪(©︎ウォーレン・バフェット)に留まり、それが導くゴールの更新や新しい領域のゴール設定に勤しむようになります。
 

 
(引用終了)
 
 ほんの一瞬、ほんの少しだけ、人と繋がれた、という実感を得たくて、わたしたちは傷つけ合うことになると分かっていても、人と関わり続ける道を選ぶのでしょう。
 
 それでは、また。
 またね、ばいばい。
 
 

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