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本がなければ息もできない

 心がぐらぐらしてくると、本を読まなければ、と思う。

 人が聞いたら鼻で笑うくらいの、些細なきっかけで突然足元ががらがらと崩れ落ちて、わたしの足元には張り詰めた綱が一本あるだけ、みたいな状態になることがある。足は震えて、風が吹けば一瞬で奈落の底に落ちてしまいそうな、心もとない綱渡り。
 あきれるほど弱い精神でほとほと嫌になるな…、とか言いながら、奈落の底をぼんやり眺める、そんな感じ。

 強くなりたい、強くなろうと自分に言い続けて早十数年。過去の自分には申し訳ないけどなんにも変わってない気がする。というかむしろ、年々弱くなってないか? なんだこれ。
 まあそれでも、どうにかこうにか綱渡りを続けてここまで生きてきたんだから十分。そう思おう。
 で、今日わたしが言いたいのは、そういうときにどうやって綱渡りをしていくかの話だ。


 しんどいときは本を読む。これはわたしの、ずっと変わらない習慣。
 いや、どんなときも本は読むんだけど。元気なときは本を読まなくてもやっていけるのだ、別に。実際「忙しくて何か月も本が読めない」ような時期は何度もあったし、なんの問題もなかった。やっていけてた。多分。自信はない。

 でも、どうしようもないとき、だめなときは本を読むしかない。
 読むことにしている、とかではなく、読む「しかない」。読まないと、読んでいないと、心が死んでしまう。
 仕事が何やってもうまくいかないとき、恋人が自分のこと大して好きじゃないなって気づいてしまったとき、友達が音信不通になったとき、SNSで自分には到底手に入らなそうなきらめきを見たとき、誰かのたった一言で心がぐしゃっとつぶれたとき。たとえば、そんなときだ。


 昔、付き合ってた人にある日突然フラれて、それからしばらく、わたしの生活は寝ても覚めても読書の日々になった。本からはだいぶん遠ざかっていたので、あまりにも本を求める自分にびっくりした。寝て起きて本を読んでまた眠る。浸かるような読書は、息も絶え絶えなわたしの必死の生命活動だった、と今は思う。

 江國香織『号泣する準備はできていた』、川上弘美『センセイの鞄』、よしもとばなな『白河夜船』『スウィート・ヒアアフター』、村上春樹『遠い太鼓』、川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』、村山由佳『星々の舟』、J・D・サリンジャー『フラニーとズーイ』、桜庭一樹『ほんとうの花を見せにきた』、と数週間かそこらで一気に読みつくした。読んでさらに傷ついたり、泣いたり、笑ったり、ちょっと救われたりしながら過ごした。
 それでもまだ、砕け散った心を修復するには足りないみたいだった。


 最近読んだ『違国日記』という漫画のなかで、事故で両親を突然亡くしてしまった、だけど呆然とするばかりで、実感も湧かず、悲しいのかどうかもわからない、という描写があった。
 なんてリアルなんだろう。
 実際に事故で両親を亡くしたわけでもなんでもない自分が、わかるとかリアルだとか言っちゃうのはおこがましいような気になるんだけど。でも、その感覚には覚えがあったのだ。

 きっと悲しいはずなのに〝悲しい〟と書かれた文章を読んでいるような気がする。涙も出ない。悲しすぎると泣けない、なんていうけれど、果たして自分は今悲しいのか? それすらも、その時のわたしにはよくわからなくて。

 だるま落としの一番下の段を、きれいに打ちぬかれたみたいだった。その一段が抜かれた衝撃で、全部がばらばらと崩れてしまうかと思ったのに、きれいに打ちぬかれてしまって、ビクともしなかった。一番下の段が、ただ、失われただけだった。たしかに衝撃はあったのに。見える世界も変わってしまったのに。なにも変わらずにそこにある、上の段が憎らしかった。

 ごはんが食べれなくなったり、生活がままならなくなったり、時が止まったりするのかと思ってた。でも全然そんな気配はなくて、なにごともなくふつうに続いていく日々が、しらじらしくて、憎らしくて、でもまあそんなもんか、としか思えない自分がそこにいた。心が壊れたからふつうだったんだ、とわかるのはずいぶん後のことだ。

 それでも本を読んでいると、ざっくりと切り裂かれるような言葉に出会う。ふいに大泣きしてしまう。きっと、一か月前の自分ならなにも思わず読み飛ばしただろうなと思うのに、今の自分にはあまりにも重い。刃物のような、たった一行。ぼろぼろと泣いてしまいながら、あぁわたしちゃんと悲しいんだ、とバカみたいなことに気づく。ちゃんと悲しい、当たり前みたいな自分の心のありように気づく。人間初心者か?と思うけど本当の話。

 そして同じように、ふいに出会う、天啓みたいな一行。その一行に出会えただけで、とりあえず今日は生きようかなって思えたり。ほんの少し息が深く吸えたような気がするのだった。


 本を読むのは、傷ついたり泣いたり救われたりしながら、目には見えない、自分の負った傷のかたちを確かめていく作業に近いのかもしれない。
 傷を直視したり、さわったり、たまに間違ってえぐられたり。時にはよく効く薬に出会ったり、あたたかい毛布をもらったりもする。
 検査と診察と治療、そして休息、みたいなもの。


 本を全然読まない人によく聞かれる質問「なんで本読むの?」「実用書ならまだしも、小説とかって人生に必要ある?」。本を読む人間からするとびっくりな内容だけど、かなりの頻度で聞かれる。ぴえーーん。
 こういう質問をする人にどんな熱弁をふるっても大抵伝わらないので、もはや何も言うまいと思っているのだけど、いつぞや読んだマツコ・デラックス&中村うさぎ対談でマツコさんがいいことを言っていたので引用。

必要があるかと言われれば、必要があるものなんてこの世にはないのよ。

新刊JPニュース

 そう、必要のあることなんてない。ましてや万人に共通する意味なんてあるわけがない。だから、前述した質問に返すべき言葉なんてないのだ。はー、やれやれ。


 ただ、そんな中で、わたしなりの答えをあえて出すとするなら。

 本とは、目に見えない感情のかたちを、教えてくれるもの。今の自分のかたちを、客観的に見せてくれるもの。
 それらを得られることが、わたしにとっての読書の大きな意味であり、必要な理由。多分。


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