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青松輝さんの短歌イベントに行ってきた! 記録。

7月8日(土)、四ツ谷でナナロク社主催で行われた【青松輝と短歌とテスト】に参加してきました。
なんか色んなことを思ったけどすぐ忘れちゃいそうなので、noteにします。

そもそものきっかけは、先月11日のフリマイベントに参加した際に初めて青松さんの同人短歌集や、短歌の同人誌を購入したこと。

正直、これまで短歌はTwitterとか古本で軽く触れてなんとな〜くいいなって思ったものをなんとな〜く書き留めるくらいの触れ方しかしてなくて、

でもフリマイベントで、目の前にいる人たちが短歌を生み出してるんだなぁと身近に感じたのをきっかけに、ド素人なりにもうちょっと向き合ってみる時間もほしいな?と思い始め、
ちょうど良いタイミングだったので申し込みました⭕️

(前までの私だったら確実に面倒臭さが勝ってたんですが、最近は「フッ軽にまず参加を決めちゃうべき」ということがようやく分かってきたので、結構すぐチケット購入しました、成長〜‼︎)


プログラム初めの70分はこの夏青松さんが出す短歌集の初校を読んで、それを贈りたい相手と、贈りたい5首を選ぶ時間。

まずもって私は、「短歌」を贈りたい相手って考えたこともありませんでした。
わたしが短歌に(読み手として)触れようと思うときは、いつも自分を慰めたい時で
短歌集を読んでいて琴線に触れるのも、読み手(=私)に優しく語りかけていたり、作り手に共感(=私に通じる)できたりするものばかりでした。

そういう自分本位でしか短歌に触れてこなかったので、「誰かに贈るなら...」っていう問いにはぎょっとして、結局「過去の苦しんでいた自分」に贈る、という視点で選ぶことにしてしまいました。

妹とか大学の友達にしようかとも考えたけれど、「短歌」をわざわざ贈りたいと思う相手は私が思いやりをかけたい相手で、でもその「思いやり」は(私が短歌を上記のように扱っている以上)ともすれば「上から目線の同情」になってしまうのが怖くて、できなかった。

短歌に対して(詩とかも同じかも)わたしはずいぶん偏った触れ方をしているんだなと反省したし、次回(?)は他者に贈るなら.という視点で考えられるようになりたいと思います。

でも一方で、この「過去の自分へ」というテーマにしたときに、贈る側と贈られる側が同一人物であるがゆえに歌の中に新たな情景が浮かぶこともあって、それもそれで面白くはありました。

とりあえず、他の方々が誰に贈ることを選んだのか、めちゃめちゃ気になります。短歌(特に第三者の作品)ってどういう風に「相手」に向けることができるんだろう.....?!



さて休憩挟んで後半の70分は、青松さんによる短歌の朗読と解説。
この解説が個人的にはと〜ても面白くて、今回行って良かった!と思いました。

「東京」をテーマにした歌の配置についてや、これまでどういうふうに推敲してきたのかという話は、「短歌集」という形をつくる上で、構成をいかに大事にしているかということが分かって、これまでパラパラと楽しむことしかしてこなかったけど「構成」という観点から短歌集の全体像を楽しんでみようと思えたり、

あまりにも素直な言葉の並びに少し違うエッセンスを入れると、ストレートだけど綺麗な短歌作品として成り立つという話を聴いて「作品らしい」感覚ってどこから生まれるのかなと考えたり。

特に、「この夏いちばん〜」の歌で、「この歌を投げかけることで初めて、贈られた相手が被傷性を自分の中に見出すということがある(意訳)(間違ってるかも)」というのを聴いた時は、なるほどーーー!!と思って、それって詩とか短歌に特有の可能性かも?とワクワクしました。
作者の手を離れたあとに読者がその歌を自分のものにしてゆく過程で、作者の仕掛けたものが読者ひとりひとりの内面に立ち現れる。その仕掛けに私自身この歌を初めて読んだ時にまんまと引っ掛かっていたわけで(笑)、作者(贈る側)の存在の強さを思い知ったし、そういう構造的な考察の上に短歌作品が作られていること自体に、感動しました。

総じて、「誰かに贈る」という視点から歌を選ぶことがそもそも面白かったし(感想の欄を書くのは歌について色々感じているのに時間的にも脳みそ的にも言葉にできてなくて悔しかったですが)、短歌ド素人の私にとっては青松さんの解説を聞くことで広がる楽しみ方が沢山あって、超充実した2時間半でした。楽しかった〜

来月の出版も楽しみです。届いたらこの殴り書き記録を振り返りながら読み直そうかな

貴重な体験、行けて良かった。


おわり

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