見出し画像

鬼子

母の母、つまり私の祖母は、女6人、男1人のきょうだいの上から2人目、次女として生まれた。

祖母の妹にあたる大叔母がまだ元気だった頃、小声で私に教えてくれた話では、祖母は子どもの頃から激しい気性の持ち主だったらしい。

時は大正末期から昭和の始め。煮炊きはかまどで、洗濯は井戸端でという暮らしだった。子ども達は皆、当然のようにせっせと手伝いをしたものだった。

その中にあって少女だった祖母は、幼い妹たちに「ほら!そこ!」「違う!こっち!」と高い所から激を飛ばす。その剣幕に萎縮してもたもたと手間取ったり、失敗したりすると、なおのこと声を荒げて妹たちを蹴散らし、「こうするのよ!こうするのっ!何でこんなことが出来ないのっ!」と喚いて、結局は全て自分でしなければ気が済まない。

言い出したら、自分の欲求が果たされるまで決して引かない。他のきょうだいが遠慮して言い出せないような我がままも、その強情に親が根負けするまで駄々を捏ねて叶えてしまう。

「あの娘は鬼子だ」

妹たちは、母が姉の事をそう言うのを何度も聞いたそうだ。母親には手に負えない、理解し難い存在だったのだろうか。
しかし不思議なもので、母からもきょうだいからも一歩置かれたその娘を、父は他のどの子よりも可愛がり、どこに行くにも連れて行ったという。
「お父さんに抱っこなんて、私たちはしてもらった覚えないけどね」
という妹たちを後目に、肩車をしてもらうような可愛がられ方だった。

父がそうやって手を差し伸べざるを得ないほど、この娘は家族の中で孤立していた、というのは私の考えすぎだろうか。

年頃になると、ビルマ(当時)でホテルを経営していた伯母の下へ、姉と共に奉公に出された。
奉公とはいっても親戚。親許を離れた外国。陸軍将校が利用するような瀟洒なホテル。
お目付役の姉などなんのその、思い切り羽を伸ばして青春を謳歌した話は、祖母本人から何度か聞かされた。

「夕食が済んだら、若い将校たちが運転するジープに乗り込んでね、ホテルからほど近い湖までドライブしたものよ」

洋風のテラスの柱にもたれて微笑む、白いワンピース姿の若き日の祖母の写真は、まるで映画のワンシーンのようだった。

そして、24歳で私の母を産んだ。

前の話 ■見捨てられる恐怖

次の話半分 ■優しい軍

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?