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レット・ミー・アウト

 フラッシュバック程、酷くはない。だが生活に躓くと、根付いた疎外感や絶望がふっと芽吹く。どうやらその周期がやってきたようだ。

「その曲、好きなんですか?」

 例えば幼い頃から頼りにしてきた、縋ってきた曲を君が聴いていたとして、誰かに興味を持たれたとする。
 好きと応えるとその人も好きと答え、両者には接点が生まれる。
 その接点は相手にとって接点でしかない。が、過去の傷を優しく撫でてくれるような曲だから思い入れが違う。つまり、接点がやがて接線になるんじゃないかと期待してしまうのだ。

「その服すごい似合ってます」

 例えば君がこんなふうに他人から褒められたりする。褒め言葉の多くは大概、社交辞令であり、他人とのコミュニケーションを成り立たせる上での潤滑剤だ。
 それは、僕も熟知しているつもりだ。それに君もわかっていると思う。
 だが、褒めてきた相手に対して君が興味、あるいは好意を寄せていたらどうだろうか。
 これはどんなにわかっていても、自らの感性やビジュアルを褒められているわけだから期待に変わってしまうだろう。

「そういうところ直さないと、この先大変だよ」

 例えばこんなふうに指摘されたとする。君はどうだか分からないが僕はあまり人から指摘されることがない。それは恐らく人間には他人に干渉するキャパシティが存在していて、誰にでも深く係わりあっていくことはもちろん不可能で、僕がその不可能の部類に認定されることが多いからだろう。
 だからこそ、語調がきつくなっていたとしてもこの人は自分に興味を持ってくれているとほんの僅かだが思ってしまう。

「よく、あの人に話しかけられたよね」

 たまにそう言われることがある。
 全然関係ない話だが、こんな僕にも友達はいる。いるんだと思う。
 情けない話だがたくさんの時間や、感情を共有している相手にすら未だに確証を持って言い切ることは出来ない。
 きっとこの疑念は独りよがりで、もしかしたらこの世界は僕が思っているより、程よく寛容なのかもしれないが、やはり今はそう思えない。
 僕は、根本的に人間を信じていない。
 だからこそ、他人から見れば、分け隔てなく人に接することができる奴だと思われるのかもしれないし、周りが一見関わりたくない人物にも危機感も嫌悪感もなく、話しかけることが出来る。
 それはその人と関わりたいから話しているのではなく、その話題に興味があるだけだからだ。
 誰かを信じられないからこそ、僕は自分も含めて人間をひとつの種族として認識している。そのため、余計な感情が入らないのだろう。
 僕は皮肉で、随分と高慢なんだと思う。
 だからこそ、一個人に対し少しでも期待をしてしまうと途端に足元がぐらつく。そして疑念は累乗され、膨らみ続け、身体を支配していき、やがて機能が停止していく。

 その度に思う。
 こんな感情、出ていけと。

 こう思ってしまう原因はもう判明している。幼い頃の原体験のせいだ。
 だが、わかったとしても改善出来るのかと問われれば、違う。
 もう、この感情は自分の基礎回路として機能していて、もしかしたら焼ききれることはなく、一生存在し続けるのかもしれない。
 だから今まで僕は人間と深く関わることを避けてきた。街行く人をただ眺めながら、たまに勝手にその相手に対してああだこうだと推測して過ごしてきた。
 それで十分だと思ってきた。
 だが、そうしているだけでは、社会とコミュニケーションが取れなければ、僕はいつまで経ってもこのままで、自己表現もなし得ない。
 変わりたい。
 変わってみたいと常々、思っている。

 もう誰かを信じたくないと思う僕と、
 誰かを信じてみたいと思う僕は、
 絶えず矛盾し、互いを殴り合っている。

 手っ取り早く、死んでしまいたいと思う日だってある。
 こんな直接的なことを書くのはすごく気持ちが悪い。付き合わせてしまって申し訳ない。

 せめてここまで読んでくれた君は僕みたいな状況になっていないことを祈っている。

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