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悩みは感情だという話

私の大好きな幼なじみが教えてくれた考え方。

彼女も大学の講義で、この考え方を教わったらしい。

講義内で学生はいくつかのグループに分かれ、グループごとに机を囲んでいた。教授は、各グループの机に紙コップを置いて、問いかけた。

「紙コップの縁はどうして丸まっていると思う?」

沈黙。学生は皆、机の中心に置かれた紙コップを凝視しながら考え込む。

どうしてって?そもそも理由なんてあるの?そんなの分かるわけないやん。

思考の波に飲まれた学生たちに教授は再び問いかける。

「考えて分からないなら行動してみたらいいんじゃない?」

ああ、なんだ、そういう授業か。

学生たちはハサミや手を使って、丸まった縁の部分を少しずつ広げていく。実際に水を入れて飲んでみる。

めちゃめちゃ飲みづらいし、破けちゃうね。単純だけど、飲みづらいんだよ、丸まってないと。耐久性も弱くなるし。普通の回答過ぎるけど、そうだよ。結局。

教授はまた次の問いを投げかける。

「じゃあ、どうして紙コップの底は少し凹んでいて、浮いているのかな」

また紙コップに目をやる生徒たち。目標を凝視しながら沈黙し、再び思考する。

さっきと同じことだよ、どうせ。安定しないとかそういうことじゃない?単純な話なんだよ。えーでも平面でも安定しそうだけどな。普通のコップなら平面のものも多いし。紙だからやっぱり弱いのかな。

「ほらほら、また止まっているよ」

教授の言葉をきっかけにまた学生たちは動き出す。ハサミで切ってみる。平面に戻してみる。

ほらやっぱりね、安定感がないんだ。紙だからだねやっぱり。なんだ、別にハサミなんか使わなくても最初から分かってたよ。行動しても答えはおんなじだったね。

ここにきて、やっと、教授は今日のタイトルの話を切り出す。

「悩みは感情なんだよ」

悩んでいる、と私たちはよく口にする。

まだ分からないんだ、悩んでいるから。今、悩み中だから少し待って。悩む時間くらいちょうだいよ。悩んでいるの?悩んでいるよ、ずっと前から。いつも悩んでいるよ。今はもう悩んでいないよ。

これらの言い回しには、「悩む」というのは一種の行動であるという解釈が付属している様に感じる。というか、私はずっとそう解釈してきた。今だって、就職のことも人生のことも自分は「悩んでいる」。現在進行形で「悩む」という行為を継続している状態から抜け出せないのだと。

しかし、この講義の一連の流れはそんな私の考えを少し変化させるものだ。

「悩んでいる状態というのは行動が止まっている状態で生じる感情。行動そのものではない。」

教授はそんな風に言っていたらしい。

この考えを聞いたときに私がどんな観点で救いを見出せたのか、心が軽くなる感じがしたのか、今はまだ上手く言語化出来ない。でもなんとなく、なんだ、ただの感情なのか、みたいな気持ちがあったと思う。

その上で、確かに悩みって行動が停止しているときに生じるものだな、と強く納得した。

講義の中で提示された問いの答えは、単純なものだった。少し考えれば分かる様なものだし、別に行動しなくてもすぐに抜け出せる「悩み」であると言えるだろう。それに行動して導き出したその答えですら、正解なのかどうかは分からない。もしかしたら他にも何か事情があるのかもしれないし、行動したって、正解を全て汲み取れるかと言われればそうではない。

でも、少なくとも、正解の内の1つは手に入れることが出来る。

それに何より、自分で行動した結果得られた答えであることに意味がある。

行動しているとき、初めてその「悩み」に取り組んでいると言える。

行動せずに、悶々とした気持ちを抱えている状況、「悩み」は、感情。

自分でも伝えたい事がまとまっていないばかりに全く言語化できない。私が伝えたい事半分も伝わらないと思う。

ただ最終的に間違いなく言えるのは、私自身は今、本当になんの行動も起こせていない状況にあり、その上で「悩んでいる」。「悩み」という感情が生まれている。その解釈に心から納得しているということ。行動を起こしたいと強く思っているということ。

「悩み」という感情が生じたら、今自分が行動を起こしていないことを自覚する。その上で活路が見えなくても、何かをしてみる。その「悩み」の根源にある事象に関する事じゃなくてもいいんだと思う。ただ、1つ行動を起こした瞬間に、「悩み」という感情が少し変化するんじゃないかと思う。自分の中に、その感情以外のものが生まれて、それに独占された状態を抜け出せるんじゃないかと思う。いや、自分でも何言ってるかわかんない。文章酷すぎて書き直したい、けど書き直さないぞ、絶対に、このnoteは私のありのままだから。

結論はない。

この考え方が、どういう学術領域にあるものなのか、それとも教授の個人的な価値観なのかも分からない。正しいのかどうかも分からないし、別にその答えを知りたいとも思ってない。

ただなんとなく私は個人的に少し救われる考え方だった。

それに何より、そんな話を共有してくれて、私に寄り添おうとしてくれる友人がいる事が、本当に幸せだと感じる。



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