見出し画像

泣くということ

私は泣かなくなった。泣けなくなった。

義母が亡くなった時、自分でも泣かない・泣けないことが不思議で、泣くという感情と別世界にいるようだった。

義父と電話が繋がらず、とりあえず自宅に行くと何も知らされてはなかったのに冷静な義父に驚いた。私は動揺して病院までの道のりがわからなくなる中、義父は至って冷静に道を教えてくれたり、電話をしていた事が印象に残っている。

悲しい感情より、タイミングが折り重なり死亡診断の瞬間に義父と私だけが立ち会えた事に驚いた感覚の方が強い。
主人や他の兄弟よりも、私が最も認知症の義母と接してきたので、神様が最後のお別れに呼んでくれたのかもしれない。

5年前、当時から認知症を患ってた義母が5年後には旅立っているのではないかと予言してこのnoteに投稿した。不謹慎な思考だけに、昨年の春には私の予言通りにはならなくて安堵していたが、年の瀬に予言はあたっていたという事実が印象として刻まれている。

予言した頃の私はよく泣いていた。不合理な感情を自分自身が均衡を保つために、涙を流す行為を通して心を浄化したいという願望があったように感じる。

悲しいから涙を流していたとか、泣くから不幸だったというわけではない。この頃も充分幸せだった。ただ自分が好きな自分ではないことに気がついて藻掻いていたと、振り返った時に理解できる。

そういう意味では今の自分は嫌いではないし、今の自分に辿り着けて良かったと心の底から思えて心は穏やか。この先何があるかはわからないけど、自分が居心地が良いと思える自分であり続けたい。

義母が亡くなったことは寂しいことだけど、受け入れる心の準備を重ねており、淡々とその日を迎える事ができたので、心を乱すことなく涙は流さなかったようにも思える。

実母も年相応に苦労を乗り越えてきたと思うが、『私の人生は幸せ』と過去に兄からもらった言葉に涙ぐみながら私に伝えてくれた。あまりにも堂々と幸せだと胸を張る姿をみて、私まで幸せな気持ちになれた。

嬉しかったのは事実であるが、特に笑ったわけでも、何か言葉を発したわけではない。この嬉しさを静かに心の中で受け止めた。

泣くことや笑うことで素直に感情を表現することも大切だし、誰かの気持ちに感情移入して気持ちを分かち合ったりできるのも素敵なこと。そして、思うほどには感情が揺れないことも悪い事ではないと思う。

涙を流さない自分が不思議すぎてこんな事を考えてたけど、連日他人の真剣勝負に心を動かされてもらい泣き。不意な出来事や予測不能だと泣けるみたいで、別世界の自分が笑ってるような気がした。

喜怒哀楽、一喜一憂、冷静沈着、なんだってOK!
きっと真面目に生きていれば神様は味方してくれる。

命ある限り、しっかりと生きていこう!!