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【職場改善note有料マガジン】No.0011・・・日本には、自分の意思で選択した行動による失敗を斡旋し、許し、応援してくれる環境は本当に少ない。

【1】「失敗が許されない仕事」がこの世にどれほどあるというのだろうか

 いつもいつも、誰かがミスをすると、ミスした本人を責め立て、責任を負わせるのが当たり前。 それが日本という国の多くの企業の在り方ではないだろうか。 確かに、失敗したからには何かしらの原因や真因があることは言うまでもないけれども、そればかりを追求したところで「人は成長しない」とボクは思う。 そりゃーね、如何なる失敗も「謝れば済む話」なら、そんなに簡単なことはない。

 いろんな会社で働いてきたけど、民間企業で働く人たちはみんな、必ず大小様々な失敗をしながら仕事をしているんだなってことはもう十分なくらい理解できた。 人は必ず失敗する。 でもね、誰かが失敗した時に、失敗した本人に対するフォローの仕方が全くわかってない。 ドラマ「半沢直樹」の主人公である半沢が勤める東京中央銀行の大和田常務がこんなことを言っていた。 「上司の失敗は部下の責任」。 でもこれは、ドラマの中だけの話ではなく、現実にそういう屁理屈で自分のミスを部下に擦り付ける上司は存在する。 自分の保身ばかり優先させ、出世のための手柄にばかり気を取られている人間が人の上に立てば、組織全体が失敗への適正な前提認識をするための機会を喪失することになる。

 それも、昔ながらの学校教育が深刻なまでに影響しているために、企業組織内部での「失敗の処理の仕方」も歪曲されてしまうのである。 謝れば済む話ではないにしても、自らの失敗を謝罪しない人間はその処理の仕方も雑。 隠したり誤魔化したりすることに一生懸命になり、「私は何も知らない」と言い張るだけでなく、誰かのせいにしたがる。 おそらく、失敗した人物に対して反省させるために「ペナルティ」を課すことが正しい処理の仕方だと錯覚しているために、そういう上司の下で働く部下たちは常に失敗を懼れるようになるし、言うべきことも言わなくなる。 老舗企業ほどそういう体質から脱却できずにいる。

【2】「責任の所在はどこにあるのか」これってそんなに大事なことかね?

 ペナルティを課す前段階として、起きた問題の責任を誰が取るのかに意識を囚われがちで、問題解決のための議論が先送りされるために、次なる問題が浮上すると対策が小手先のもので済まされてしまい、本質的な解決に至らない負のループにハマっていても、みんな一斉に逃げ腰になる。 そうして謝罪が遅れ、余計に印象を悪くする企業トップや政治家の会見は珍しくない。 問題が起きたその瞬間は、「誰が責任を取るのか」よりも「どのように処理するか」を先行して議論されなければならない。

 仕事においては、悪意による間違いよりも過失による失敗のほうが断然多い。 しかし、重大性の高いものほど誤魔化される。 失敗にもいろいろある。 時には、隠すほどの事でもないことまで隠そうとする。 臆病風に吹かれれば、その辺の判断が曖昧になるのかもしれない。 面子や世間体がそんなに大事なのかね? ボクには到底理解できない。 失敗すれば少なからず批判されたり、笑われたりってことはあるだろうけど、だから何だっていうのかわからない。

【3】義務、責任、信用・・・

 「能力を持った者はそれを正しく行使する義務がある。」 これはドラマ「白い巨塔」の主人公、財前五郎の遺言の中に出てくる言葉である。 この言葉は、働くものが持つ能力だけでなく、技術にも、そして資格にも通ずるとボクは思った。 これらを行使した結果生じた問題の責任も果たすべき、という意味も含まれているのだと捉えることができる。 企業組織における役職にも同じことが言える。 それを部下に擦り付けるなど本来あってはならないはずである。 部下たちは上司がどのように責任を果たすかを常に観察している。 その程度によっておそらく見方を変えるだろうし、信頼度も上下することだろうと思われる。

 しかし時には、昇進を言い渡された人物の力量以上の責任が生じる場合もある。 多くの人々が懼れている責任はこれではないかなと思う。 だから、そんな指示も命令も、それによって生じる責任の重さが自分では背負いきれないほどのものであるならば、毅然と断る勇気も必要なのではないだろうか。 主任マターの責任か、係長マターの責任か、課長もしくは部長マターの責任か、それらを有耶無耶にするようなことにでもなれば、必ず他の誰かが被害に遭ったり、犠牲になったりする。

 悪意によって発生した問題を起こした人物は、その責任を取るべく処分を受けるべきであり、糾弾されなければならない。 しかし、不注意による過失のものであれば、慎重に対処しなければならない。 ただ、失敗した本人を責め立てるだけでは、本当の意味での問題解決には至らないということを正しく認識しなければならない。

【4】失敗した人間を批判し、非難する人たちがいるのは大前提であることを、挑戦する人たちは自覚している

 人は簡単に、そして勝手に、批判や非難する。 社会というのは思っている以上に残酷なのだということを多くの人たちが知っているからこそ、批判されたり非難されたりすることを懼れると同時に、失敗することも懼れて正しい行いでも保身のために動かない。 そして、そんな自分に対して罪悪感や自己嫌悪を感じていても、自分がその当事者になることから必死に逃げようとする。 人の本性というのは、実のところそれほどまでに弱いのである。

 誰もやろうとしないことをやり、誰もやったことがないことをやろうとし、自ら失敗の道を選んで突き進む人間を、「その他大勢の人間たち」が偉そうに批判したり嘲笑ったりする光景を見ることは珍しくない。 そんなことばかりやっていると、会社組織そのものがグラつくようになる。 真剣にやらなければならない時に他者を笑い飛ばしている場合ではないはずではないだろうか。 しかし、その他大勢の人たちというのは基本的に脇役で、批判されている本人、笑われている本人が主役なのである。(太字:レペゼン地球DJ社長)

 大して失敗したことのない成功者の言葉よりも、幾度となく失敗してきた者の言葉のほうが重みがあるのは、失敗から得られる気付きのほうが多くの人たちにとって意義のあるものだからだ。 ビッグマウスで、大見栄を切って派手に失敗した人間は多くの人間たちから笑われる。 しかし、目指すべき成功に徐々に近づいていくに連れ、笑う者が減っていく。 だから、ちょっとやそっとの失敗をしたために笑われたからといって、諦めたり落ち込んだりする必要はないわけだ。 笑いたい人たちがなぜ笑うかは「できるはずがない」と思い込んでいるから笑うわけであって、性格が悪いわけではない。 ムキになるだけ無意味ってもんよ。

【5】目標の高さで結果が決まる

 何かに挑戦しようとした者ほど失敗するもので、たった1度や2度の失敗でくじけてたら、一向に成功には近付けないし、理想は理想でしかなくなる。 目標、理想、志、これを「今の自分のサイズ」に合わせて立てる人は、結果は成功してもそれほど賞賛されることはないし、失敗しても笑われたり批判されることもない。 高校野球で言えば、県大会優勝を目指すチームと、全国大会優勝を目指すチームとでは、最初の段階で目標が違うわけだからそのための練習も試合での結果も目標の高さにおよそ比例する。 自分たちは甲子園に出場できるほど強いチームではない、と思い込んでいるようなメンバーが集まったとしても奇跡は起こらない。

 社会に出て働いている人たちは、何を目指して仕事しているのだろうか。 毎月給料をもらうために仕事をしている人たちほど、残業規制による給料の目減りを嫌い、簡単にモチベーションが下がる。 これまでドップリと残業させてもらってきた人たちは、残業手当ありきの仕事をしてきたわけだが、それがパッタリとなくなると、大きく減ってしまった年収に対してゲンナリすることだろうと思う。 報酬としての給料が減るとモチベーションを下げてしまう人たちは、仕事の精度も下げてしまう。 そして事ある毎に、権利だ義務だと騒ぎ出す。

 給料の額が自分の満足いく額ならやる、満足できない額ならやらない、いちいちそういう線引きしてたら、安心して仕事を任せようなんて思えない。 年俸制ならそんなこと言ってられない。 年俸制じゃないからそんなこと言えるんだろうな。 やろうがやるまいが毎月の給料にはそう簡単には繁栄されないからね。 やってもやらなくても、大して評価も変わらない。 それでも高い目標を掲げてやろうとする人間は、失敗しようがどうしようが、修正しながらやり続けていくことができる。 主役としてね。 主役としての人生を生きるか、脇役としての人生で終わるか、いつも自分次第。

【6】何のために?

 認められたいがために目標を掲げるのか? 認められたいがためにやるのか? では、目標を達成したとしても自分が期待するほどの評価を得られなかったらどうする? 目標を掲げて頑張ったのに結果が出せなかったらどうする? 失敗を懼れる人たちというのは、それをも懼れて高い目標を掲げず、ハードルを下げて頑張ったふうに見せかけようとする。 既成事実にばかり意識を囚われてしまうと、「やること」だけが目的になる。 学校の宿題と同じ。 自分でやらずに、ただ友達のノートを書き写しただけで、提出するためにやるだけに留まる。 だったら最初からやらなくてもいいという話になる。

 会社での会議やら取り組みやらも、本質的に目的を逸脱しているものに関しては辞めるべきだと判断しなければならない。 そして、辞める代わりに、やる価値のあるものへと変えていかなければならない。 そうでなければ、仕事が面白くなくなるし、やり甲斐も感じられなくなるだけでなく、次々と山積みされていく問題の処理も雑になっていく。 一定期間は誤魔化せたとしても、いずれそれらが一つの重大な問題として噴き出すことになる。 そうなってから対策を練ろうとしても、労力も時間もコストもかかる。

 組織ぐるみで問題を隠蔽したり曖昧にして済まそうとするようならば、保身の気持ちなんか捨てて声に出さなければならない。 立場も関係ない。 そういう勇気ある働き方ができる職場環境を作るということは、理想なのかもしれない。 すぐにその理想を実現できないにしても、目指すべきだとボクは思う。 時間をかけてでも、そういう人づくりをしていこうと思う。 そのためならば、職場の人たちの話にも喜んで耳を傾けたいと思う。 誰のどんな話も、結局は「どうすればいいか」を考えるように導いて行けば良いだけなのだからね。

 失敗しないための手段を探そうとするよりも、失敗したあとの手段を学んだほうが価値がある。 ボクはいつもそう思っている。

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