見出し画像

【無料公開中♬】【職場改善note有料マガジン】No.0021・・・何のために働き、何のために時間を過ごすかを個人が文章化すれば、そこには本人の仕事に対する熱量が現れる。本質はどこにある?いつも目の前に答えがあると思うな。

※職場改善note有料マガジンは、3,300円でずっとお楽しみいただけるマガジンです♬あなたが今どこかでお仕事をしているのならば、きっと仕事上いろいろと考えさせられたり、悩んだりすることはたくさんあることかと思います。そんな皆さんのために、何か一つでもプラスになればいいなぁと思いながら不定期で更新しております♬ ご興味のある方は、是非ご購読の上、コメントばんばんしてくださいね♬ 皆様の声を、心よりお待ち申し上げます!✋・∀・)にっ♬

【1】人生の3分の1を仕事に投じる人の生き方

 働かないと生きていけない、これは「働かざるもの食うべからず」という諺にもあるように、働かないと給料はもらえないし、生活を営むこともできない。 しかしこの常識は、おそらく2035年~2045年の間にアップデートされることになる。 働いて給料をもらったりボーナスをもらったりするという常識は、その頃にはなくなっていると考えられる。

 今年の10月、予定どおり消費税は10%増税することになるが、日本の税制も一気にアップデートされていく。 ベーシックインカム制度が導入されるまでは今まで通り働くことになるかもしれないが、すでに「ダブルワーク」を斡旋する企業も続々と出てきている。 副業というヤツだ。 何を生業に生計を立てていくかは、「1つの会社で一生骨を埋める気で働く」という考え方では今後はリスキーな考え方だということ。 

 トヨタ自動車の社長、豊田章男氏が「終身雇用は難しい」と明言したように、世界トップの自動車メーカーでさえ、今後はそういう状況下に立たされていく。 日本人は諸外国に比べて働き過ぎだとする海外からの圧力により、日本政府は「働き方改革」という名の労働規制を敷くことになった。 今はまだ序章だが、これからはもっと規制を強化していき、労働基準監督署の存在がうるさく感じることになるだろう。

 ベーシックインカム制度が導入されれば、働かなくても生きていける社会が実現するかもしれない。 全国民に均等に一定額が給付される。 今のところ8万円くらいだと言われているが、とりあえず、ウィキペディアでその意味を知ることにする。

※国民の最低限度の生活を保障するため、国民一人一人に現金を給付するという政策構想。生存権保証のための現金給付政策は、生活保護や失業保険の一部扶助、医療扶助、子育て養育給付などのかたちですでに多くの国で実施されているが、ベーシックインカムでは、これら個別対策的な保証を一元化して、包括的な国民生活の最低限度の収入(ベーシック・インカム)を補償することを目的とする。従来の「選択と集中」を廃止し、「公平無差別な定期給付」に変更するため、年金や雇用保険、生活保護などの個別対策的な社会保障政策は、大幅縮小または全廃することが前提となる。 包括的な現金給付の場合は配給制度であり、国民全員に無償で現金を給付するイメージから社会主義的と批判されることがあるが、ベーシックインカムは自由主義・資本主義経済で行うことを前提にしている場合が多い。
ベーシックインカムの根底には、無知や怠惰といった社会悪の除去という目的がある。ダニエル・ラヴェントス(スペイン語版)は、その目的のために法律化されるベーシックインカムは、世帯にではなく個人に対して支給されること、他の収入源から所得は考慮しないこと、仕事の成果や就労意欲の有無は問わないこと、という三つの原則に従わなければならないと主張している[15]。
新自由主義者からの積極的BI推進論には、ベーシック・インカムを導入するかわりに、生活保護・最低賃金・社会保障制度を消滅させ、福祉政策や労働法制を「廃止」しようという意図が根底に流れている[16]。また、新自由主義者の平等観でBIを導入すると、富裕層に貧困層と同じ金額を支給するという悪平等も発生する
一方で、この考え方・思想に対しては古代ローマにおけるパンとサーカスの連想から「国民精神の堕落」など倫理的な側面から批判されることがある。所得給付の額次第では給付総額は膨大なものになり、国庫収入と給付のアンバランスが論じられたり、税の不公平や企業の国際競争力の観点が論じられることもある。

 つまり、「反社会的勢力」に属す人たちは、国から一切の給付を受けることができなくなる。 仮にその事実を隠して給付を受け続けたとしても、どこかのタイミングでその事実が発覚した時点で全額返済を要求されることになる。 おとなしくしていれば、ベーシックインカム制度の恩恵を受けることができるわけだ。 しかし、社会から悪を排除する代わりに、相応のリスクが生じることになる。

 全国民に均一の給付を実施したとして、社会は本当にバランスが保たれるのかという疑問は今のところ拭えない。 働かなくても生きていける社会が、国民にとって本当に幸せなことなのかを疑問に思わなければならない。

【2】働かなくても生きていけるようになったとして「何をして生きる?」

 今、世の中は、「自動化社会」という前代未聞の異次元常識を建立しようとしている。 その壁に覆われた街という街で毎日を過ごす人々は、一体何をして毎日を生きるのだろうか。 社会のあらゆる物事が自動で動き続ける、そういう社会だ。 欲しいモノは音声で注文ができ、オンライン上で決済でき、即日もしくは翌日にはモノが家に届くようになる。 極端な話、家を出なくても生活できてしまうようになる。

 好きなことが見付からない? 何をしても楽しくない? 何をして生きればいいかわからない? そういうことを嘆き続けていると、いずれ死を選択することになるぞ。 せっかく人間として生まれてきたんだ。 生を全うしたければ、死に際になって後悔するような生き方だけはするんじゃないぞ。 安易にその生命をドブに捨てるようなマネをすれば、もしその後、天国と地獄があったとしてもどちらにも行くことはできないと思え。 自害する者は皆「無化」する。 存在そのものも、人の記憶にも残ることのない無化だ。

 オレは、ただ生き延びる。 他者がオレを惨めなヤツだと蔑もうが笑おうが、そのこと自体はオレの人生に何の関係もなければ何一つ影響することはない。 人の生き方というのは他者が評価するものではない。 自分が自分の生き様を誇れるものにできるかどうか、人が生きるということの本質的な課題は、おそらくそこにある。 犬や猫や豚や牛にはできないことを人間はできるだろう。 できるのにやらずに死ぬのはどうなんだ? 結局人生は自己満足。 どんな生き方をすれば満足できるかは、一度くらいは考える価値があるんじゃないか?

 薬物汚染は今も進行中。 その当事者である現在進行形で薬中の人たちは、おそらく、先々どうなるかくらいは予測しているはずだ。 それでもその依存性から脱却できずにズルズル依存していく。 でも、よくよく考えてみれば、国と司法がどんなに刑法を厳罰化しても、なくならないだろ? 「本質を見失うな、自分の欲求を満たすことのほうが大切なのか?」(進撃の巨人/リヴァイ士兵長)

 この「社会に生きる」というその本質が、近い将来、過去のどれでもない、全く新しいものへと塗り変えられる日が来る。 それでもなおその真実を受け入れられず過去のあれこれに依存したいのならそれでいいんじゃないか? 言ってしまえばそれも一つの生き方だと言える。 結局選ぶのは他の誰でもない、自分自身だからな。 ベーシックインカム制度が導入されたら、これまで罪とされていたことも無効化されていく気がする。 人々の欲望も108の煩悩でありながら、これもまた自動化社会ならではの煩悩へと色を変えるのかもしれない。 

 でも、唯一、スポーツだけはなくならない気がする。 スポーツは自身の運動神経とセンスを試すものだからね。 どんなに時代が変わろうと、スポーツという概念は普遍的なものとしてずっと残り続けると思う。 おまけに、楽しいと思えることも、だんだんとスポーツに偏っていくんじゃないかな。 テニスなんか年齢関係なく楽しめるし、適度な運動としては最適らしいからな。 ゲームばかりしてたら体が腐る。 そのうち歩くことすらままならなくなる。 10か月も運動しないと、本当に立ち上がることすら難しくなる。 運動は人間にとってずっと大切なことなんだなって、身を以って経験したよ。 歩き目的の小旅行ってのも悪くないかもな。 地球全土を練り歩くことはできないにしても、いくつかは一度は行っておきたい場所をリストアップして狙い旅行をするのさ。 万里の長城はもういいや。 一度で満足した。

【3】生き長らえて初めて辿り着く境地がある。そんなんじゃサイ(コロ)に振り回されるだけの人生。言わば三流。生まれながらに才を持つ人間でも三流なら命をドブに捨てかねない。(アニメ:アカギより)

 人生の本質に目を向けてみると、オレはこう考える。 「自らの欲求を満たすために生きることが大前提であり、多くを学び生くその過程において、見ず知らずで、尚且つ、不特定多数の人たちのために働き、幾多の出会いの中でほんの一握りの大切な人と出会い、共に最期へ向かい歩み生くこと。」 断言できることとして、「100%他者のために生きることは不可能」なのが人生だということ。 そして、「自分の人生があってこそ、他が為に生きられるのであり、そんな自分を支えてくれる不特定多数の人たちがいるからこそ生きられるのだ」ということをオレが示した言葉。

 人生の根本である真の本質は、【奇跡】だ。 何もかもが奇跡。 まさか自分がこの世に生まれたことが必然だと考えている人はいないのではないだろうか。 しかし、世界各国の歴史を振り返ると、あたかもこの世に生まれ歴史に名を刻むことが約束されていたのではないか、と思えるほどの偉人たちがたくさんいる。 そのことに気付かされると、自分がこの世に生まれ生き長らえていることがなんと「小さい奇跡」だろうとも思える。 ところが、この小さい奇跡を、大きさでは測れないほどに大きい奇跡なのだとも思える。 ヘタするとゴキブリとして生まれたり、アリとして生まれたり、蚊として生まれたりしていたかもしれない。

 それでも、こうして人間として生まれることが許されたのは、きっとこれにも本質的解釈ができるのかもしれないって思う。 実は当たり前なことなんてこの世の中には1つもないはずなのに、生きていくその過程で、どこの誰が創った「当たり前」や「常識」かもわからないうちに、勝手にそのように思い込んでしまう。 そしていつからか、「常識は常識ではない」や「常識を疑え」などと表現する人たちが出てき始めて、いよいよこれまでの人類史における全ての常識を否定する時代の変化へ突入しようとしている。 それでもなおこれまでの常識に依存して生きるということは、おそらくこれからの時代はリスクになり得ると思う。

 これは、頑固なタイプの人は、いつまでも古い常識や固定観念に縛られることで自ら「リスキーな生き方」を無意識に選択することになってしまうということを意味している。 所謂これが三流の生き方なのだと定義しても、これからの時代においては受け入れられていく思想になるだろうと読むことができる。 さらに、こういう見方は個人についてのみとは限らず、集団組織においても言えることだとオレは思う。 今やほとんど機能していないルールや仕組み、進歩の無いアナログな作業、古い設備、成果が出ているようには思えない取り組みや活動など、時代にマッチしない経営体制の企業は、当然時代に置き去りにされる。 栄枯盛衰はどの企業にも通じる概念ではあるものの、シフトチェンジが遅れれば遅れるほど、衰退ペースは加速する。 言わば、「三流企業」ということだ。

 かつては一流企業と名高く認知されてきた企業も、これからは時代への順応性が低ければ加速的に地に堕ちていく。 そんな状況下で「新・ぶら下がり社員」の比率が高い職場では、生産性が低いばかりか、コストばかりが積み上がって、行く行くは赤字経営が人離れを引き起こすトリガー(引き金)となる。 呑気に他者を見下している場合ではない。 あ、そうそう、この期に及んで他者にばかり意識を囚われている従業員に対しては合わせる必要はない。 そのことが、自分が勤めている職場のことなんかどうでもいいのだということの証なのだ。

 noteでは登場2度目のワード「新・ぶら下がり社員」。 意味は【会社に貢献する気はないけれども毎月給料だけはもらおうと必死に会社にしがみつくお荷物社員】のこと。 おそらくこれからそういう意識の低すぎる人材はどんどん窓際へ追いやられていくことになるだろうと思う。 そして、ほとんど無駄な作業を延々とやらされる。 企業はそういう人材を「自主退社」に追い込んでいかなくてはならない。 窓際社員と言っても企業は人件費をかけなければならない。 昨今、強引に退職へ追い込むことはやりにくくなっているようだけれども、国の規制がどうであれ企業も存続しなければならないという使命を背負っている。 甘いことは言っていられない。

 企業側としては、スタミナを消耗しすぎる前に極力早い段階で人材を選別にかけなければならない。 窮地に追い込まれてからの一斉リストラは、致し方ないとは言え社会的に企業イメージを損ねるリスクがある。 勇気の要る決断ではあるものの、経営者は身を削る思いで断行しなければならない。 企業の運命は、全ての従業員の行く先に強くリンクしている。 となると、従業員も従業員で相応の危機感を持っていなければならないはずなのだが・・・平気な顔してぶら下がり、無駄残業をして帰っていく社員は今もまだ根強く生息している。 新・ぶら下がり社員というのは、企業が最も排除したい人材の種類。 自分はそういうやる気の無い社員ではないと豪語できるくらいの働き方をしていたいものである。

 プライベートだけではなく、仕事人生においてもこうして突き詰めた思考を広く深くしていきたい。 残念ながら未来は思っているよりもずっと暗いかもしれないが、それでも、生き長らえて初めて辿り着く境地というところには、這ってでも到達したい。 「簡単に命を落として堪るか!」 それくらいの気概は必須だろうと思う。 「無駄死に」は、ただそれに尽きる。 リスクテイクを誤ると、そういう事にもなりかねないわけだ。 長期連休だからって世間様と同様に旅行に行こうなどと考えるのは、取るべきリスクとは言い難い。 この考え方は昔から変わらない。 うちの両親もそういう考え方だったようだから、今も元気に、そして質素に暮らしている。 質素とは言え、聞いている限りではすごく幸せそうに思える。

 質素な暮らしをしていながらも、世界情勢に詳しいし、雑学的知識も豊富。 そういう親の元に生まれることができたということは、プラスアルファの奇跡。 奇跡の上乗せ。 そう思える。 答えばかりを求めるな。 そうそう簡単に答えが見つかって堪るか。 人生はそんなにシンプルではない。 紆余曲折、波乱万丈、右往左往、時にはこういうことがあるのが人生だ。 だからと言って焦ることもない。 一時の波だと思えばいい。 大海に引きずり込まれないように、適材適所、慎重かつ大胆に・・・というのがおそらく最も賢い選択かもしれない。 「考えるな、感じろ」とブルース・リーは言葉を残したそうだが、やはり「考える」ということも重要な気がする。 そうでなければ自分を保つことは難しいとオレは思うから。

いただいたサポートは、今後のnoteライフ向上のために活用させていただきます!