“LIFE EDUCATION”の準備の対話(池田正昭さんインタビュー)

ーーー今回HIRAYA GOTOKUJIで行う集まりは、”March for Life Meeting”ということで、アメリカで毎年行われている”March for life”というイベントを受けて行われるものです。”March for life”は「世の中から中絶を無くそう」ということを掲げていて、これはPro-Lifeというムーブメントが背景にあります。
Pro-Lifeは、アメリカでは世論を二分するほどの大きなムーブメントですが、日本ではあまり、というかほとんど知られていません。カトリックのバックグラウンドのことも含めて、日本でそのことを大声で発信している数少ない一人が池田さんで、わたしも全く知らなかったところからいろいろと学ばせていただいています。
中高とカトリックの学校に行っていまして、大学では宗教学を学んだりもしていましたが、恥ずかしながらカトリックにとって中絶が重大なテーマだということも知りませんでした。
がダウン症の娘を授かってから、そして出生前診断でダウン症の子たちが多く中絶されちゃっているということを知ってから、これは重大なテーマだぞと関心を持つようになりました。中絶というのは社会的にも科学的にも、精神的にも、極めて大きなテーマだと。
そんな経緯で今回HIRAYAでのイベントもやりたいなと思いましたし、いろんな人に関心を持ってほしいなと。というわけで事前にすこしお話を伺えたらということで、よろしくおねがいします。まずはPro-Lifeのことをかんたんに教えてくださいませんか。(聞き手:淵上周平)

池田正昭さん:中絶やめようと訴えるPro-Lifeの前に、その反対に、中絶を権利として合法化しようと訴えるPro-Choiceのムーブメントが始まりました。チョイス、すなわち選択の権利を至高の原理とする立場です。
60年代後半からマスコミをとおしてにわかに浸透しましたが、ベトナム反戦運動の流れの中から出てきたものと考えています。ベトナム反戦、Pro-Choice、アースデイ(環境運動)、この3つのムーブメントが「リベラル」が勃興する三本柱となりました。

1973年1月22日に「ロー対ウェイド」と呼ばれる最高裁判決が下り、アメリカは全州でAbortion(ただしい訳語としては中絶というより堕胎になりますが)が合法となりました。すでにニューヨーク州やカリフォルニア州では合法になっていたのですが、いまだAbortionを認めていなかったテキサスなどの南部の州は違法ということになったんですね。下馬評では中絶が合法になるなんてありえないという見方だったのですが、蓋をあければ9名の判事のうち7対2で中絶合法の圧勝でした。Pro-Choiceのロビー活動がよほど凄まじかったんでしょうね。1973年1月22日はアメリカにとって歴史的な一日になったわけですが、その日はちょうどジョンソン前大統領の訃報と重なったこともあって、たいして大きなニュースになりませんでした。それが今日のまさに世界を二分する最大のビッグイシューになろうとは、ほとんど誰も想像もしなかったでしょう。
ところが、これはとんでもないことになったと立ち上がったのがネリー・グレイという法律事務所につとめる一人の女性でした。カトリックだった彼女は、ただちに司教団に働きかけて、判決の翌年の1974年1月22日に最初のMarch for LifeをワシントンD.C.で実施します。Pro-Choiceが歴史的な勝利を収めたことに対抗する運動がPro-Lifeになったわけで、彼女がPro-Life第一号ということになるでしょうし、March for LifeとともにPro-Lifeが始まったということができるでしょう。明白に最高裁判決への異議申し立てをする目的のデモなので、まぎれもない政治的市民運動ですが、全面的にカトリックがリードするムーブメントです。その後、中絶合法化の波はヨーロッパ各国やオセアニアにおよび、それに対抗するPro-Lifeの運動も各地で台頭していくことになりました。今日ではMarch for Lifeは世界じゅうでおこなわれています。やはりいずれの国でもカトリックが先頭に立っています。
日本にもないのはおかしいと思って5年前から日本版マーチフォーライフを始めました。地声は張るほうですが決して大声は出してません(笑)。この指とまれって呼びかけて、そこにどんな人が集まってきてくれるか待っている感じですね。

ーーー池田さんほど地声もありませんし小声ですが、わたしも周りに中絶の話をすることがあるのですが、男性だからということもあるんでしょうか、「この話はあまりしないように」、というムードを感じます。宗教と政治の話はしないように、というナゾの不文律とリンクしているところもありますね、きっと。日本の中絶をめぐる状況についてはどう見ていらっしゃいますか?

池田正昭さん:日本は第二次世界大戦後の世界で最初に中絶を合法化した国です。日本は殺人を正当化したとんでもない国だと当時は世界中から激しい非難に晒されました。しかし、のちに合法化する欧米諸国のように中絶を女性の権利として認めたわけではありません。
そもそも日本の刑法には今でも堕胎罪が存置されています。Abortionに関わった者は親も医者も刑事罰の対象になるのです。堕胎罪が問われない例外規定として設けられたのが戦後の1948年7月13日に成立した優生保護法、現母体保護法です。それは特定の資格をもった医師に中絶手術を施す権利が付与されたことを明文化した法律です。身も蓋もない話ですが、産婦人科業界への利益誘導が目的の法律でした。中絶という保険適用外の収入源をもたらすために、産児制限や人口削減というイデオロギーが使われたのです。Pro-Choiceを支援するアメリカのマスコミと同じで、日本のマスコミは国民に産児制限や人口削減の必要性を刷り込みながら中絶法を成立させるための御用機関でした。
日本の中絶をめぐる状況ということでいえば、産婦人科のお医者さんたちはもう中絶に疲れてしまっていると思います。このあいだ知り合いになった産婦人科の開業医は先代から中絶をやっていますが、もうこんなことはやりたくない、いのちを助けたいと良心の叫びをあげてくれました。もちろん収入源ですから、簡単には手放せないでしょうが、もしとつぜん中絶が違法になれば、この方はもちろん、肩の荷が下りて喜ぶお医者さんはきっとたくさんいるでしょう。
現行の法律、制度においては、医師の判断によって中絶が行われているわけです。経済的理由によって中絶ができることになっていて、中絶理由の99%はこれに該当しますが、そもそも経済的理由によって妊娠の継続が困難であるなんて判断をどうして医者ができていたんでしょうか。まったくもってへんてこな法律ですが、ところが最近は、生活保護を受けていない限り経済的理由をあてはめてはならないという指導を医師会から受けたりするそうです。
人口減少を食い止めることが国の死活問題になっている今、現場の医師に対して上から中絶の規制がかかり始めているのかもしれません。なので、中絶の件数自体はますます減るでしょう。マーチフォーライフなどがもっと大きな運動になって、お医者さんたちの良心に働きかけることができたら、もっと劇的に中絶は減るでしょう。欧米とちがって日本の場合は、医者がやらなければ中絶はないのですから。

ーーーお医者さんのお話は伺いたいですね。科学者として、人のいのちにもっとも近い職業にたずさわっている人として。人のいのちに近いところで働く人としては宗教者もそうだと思いますが、マザー・テレサが中絶を無くそうと活動していたという話を以前池田さんから伺いました。来日したときにも、マザーはそのことを強く発信していたけれど、一部をのぞいて国内ではふにゃりとスルーされてしまったような状況だったと。マザーが中絶に反対していたことは、日本では今でもぼんやりとしていて前面に出ていないように思います。

池田正昭さん:マザー・テレサは日本に滞在したあいだ、それこそ声を限りの大声で「中絶やめよう」と訴えつづけました。マザーの声ですから、さすがにマスコミも無視できませんでした。日本は豊かな国かもしれないが、中絶をやる限り貧しい国だと痛烈に批判したことを毎日新聞などは正確に伝えています。
当時ずっとマザーを同行取材し、中絶に関する発言も記事にしていた毎日新聞の元記者に電話で話をうかがう機会がありました。その方は退社後ある大学の社会学の教授になられていて、ゼミでは必ずマザーのことをテーマにするんですよと言っていました。マザーが中絶に反対していたことも学生に話すんですかと尋ねると、「ああ、いのちのことは宗教の問題になるから取り上げません」とバッサリ返されました。呆気にとられましたが、それはある意味ただしい理解なのかもしれません。
たしかに宗教が入り込んだら社会学は成り立たないんだろうし、マザーから宗教を抜くなんてアンコを抜いたどら焼きみたいなものですが、どら焼きの皮だけで十分なのでしょう。マスコミにも大学にもアンコという真理は不要なのです。元記者の大学の先生は、中絶が悪だと認めてしまったらカトリックになってしまうというロジックを図らずも立証してくれたようです。中絶はよくないことだけど仕方ない場合もあるよねと考える大方の日本人のメンタリティは、カトリックは嫌いというわけじゃないけど受け入れられないよねと考えるそれと限りなく一致するものなのでしょう。

ーーー最近でも、NYでの中絶の大幅な許容へのシフト、ルイジアナ州の中絶制限法への最高裁の介入など、いのちのはじまりを巡る社会的な前線が刻一刻と動いているように見えますが、日本ではまったく報道されませんね。

池田正昭さん:マスコミはお客さんあってのサービス業ですから、受け手がどう反応していいかわからないようなニュースは出さないでしょう。妊娠40週全期間の中絶を認める法律を成立させて、しかもその法案成立を祝って摩天楼をライトアップした今回のニューヨーク州の動きなんて、そもそも送り手からしてとても咀嚼できない話でしょう。しかりアメリカでは、これは歓迎すべきニュースとしてマスコミは報じます。アメリカのマスコミは100%リベラルなので、そもそも中立報道なんて概念がアメリカにはありません。つねにPro-Choiceの側に立った報道が基本姿勢ですから、March for Lifeがどれだけ世界最大規模のデモ行進であろうと、Pro-Lifeに与するような報道は一切ありません。逆にPro-Lifeを貶めるためなら平気でフェイクニュースをばらまきます。

ーーーアメリカにおけるリベラルとライトの対立の、最も大きな争点は中絶の問題だといっていいんでしょうか?

池田正昭さん:根っこは中絶問題ですね。そこからぜんぶがつながっています。保守がライトの信条ですが、産まれる前の子どものいのちを守れないんだったらそもそもライトではない。権利の拡張がリベラルの信条ですが、中絶する権利を拡張できないんだったらそもそもリベラルではない。それくらいハードに両陣営の本丸に中絶問題が君臨していると政治学的に考えなくてはなりません。中絶に反対できなければ保守ではないし、中絶の権利を推進しなければ、もはやリベラルではなくなるのです。その意味で、このたびのニューヨーク州での中絶最大許容へのシフトの達成によって、リベラルは行き着くところまで来てしまったのではないかという見方もできます。

ーーー共和党は伝統的にPro-Lifeで、トランプ大統領は、“the most pro-life president in American history”と言われるほど、Pro-Lifeには積極的なようですね。2019年のマーチ・フォー・ライフには、マイク・ペンス副大統領とトランプ大統領のビデオ演説もありました。

池田正昭さん:Pro-Lifeとしてもっともインパクトがあったのはレーガン大統領ですね。レーガンが大統領に就任する頃は中絶問題がこれほど大きく政治課題として浮上してくる前の時代で彼にもそれほどの意識はなかったと思いますが、レーガンは在任中に「Silent Scream」と題された、中絶される胎児が身をすくめて鉗子から逃れようとする動きをエコー映像で捉えたドキュメンタリー作品を見て、それで完全にPro-Lifeの活動家になります。いのちの尊さを訴える後世に残る数々の名言を残していて、今振り返っても実に尊敬に値する傑物だったんだなと思わざるをえません。

レーガンに比べるとトランプは普通のオッサンです(笑)。でも、普通のオッサンの感覚で「みんな、いのちは大切じゃないか」と訴えてくる様は、ほのぼの好感がもてますね。もちろんトランプは最初から選挙公約のときからPro-Lifeですから、Pro-Lifeの政治家として大きな仕事をしています。あと一歩という感じですけどね。

ーーー今回のマーチフォーライフのテーマの一つが、“Pro-Life is Pro-Science”ですね。この背景について教えてください。

池田正昭さん:Life begins at conception〜いのちは受精の瞬間に始まる。これはまずカトリックの教えだったわけですが、サイエンスの事実でもある。発生学も遺伝子工学も認めている客観的事実。聖職者や信者が主張するだけでなく、科学者がそれを裏付けているという点を今年は強調していたんですね。カトリックとサイエンスが一致しちゃったらもう鬼に金棒でしょう、どう?リベラルのみなさん、ぐうの音も出ないでしょう?というわけです。いのちは受精の瞬間に始まる。いのちはすべて神聖不可侵のものである。受精の瞬間から人なのであるがゆえに受精卵や胎児を壊すことは殺人になる。だから中絶は認められない。これは鉄板のロジックであるはずですが、多くの日本人は、まあまあという感じで結局スルーしようとするでしょうね。
日本人にとっては簡単なことではないんです。どうしても二の足踏むんですね。というのは、鉄板というか、これが究極のロジックだからです。「御意!」と納得してしまったら、その人はもうカトリックにコンバージョンしたのと同じになりますから。科学の事実と言われても、古くて新しい日本の宗教観では、いのちに始まりなんてないですからね。前世からやってきて次また生まれ変わるのがいのちだと考えたりしている。中絶した子に、ごめんね、こんど生まれ変わるときはまたわたしのところに来てね、と言えてしまう。そうしたメンタリティの蔓延に社会はどう対処すればいいか。そろそろ本気で考えなければならないところまで来ているのではないかと思います。
そもそも中絶以前に、どうして人を殺してはいけないのかという答えが日本人にはないんです。人殺しはどう考えてもダメでしょって言うんだけど、その根拠をもっていない。突き詰めると法律で殺人罪が決められているからという話にしかならない。相対的な倫理観しかないから、殺人が悪と決めつけることが実はできない。だから中絶に関してもできればやらないほうがいいが仕方ない場合があるでしょうと妥協してしまう。
ところがキリスト教社会においては絶対的なモラルがいまもインフラとなっている。それは十戒です。神から与えられた掟です。その五戒が「汝殺すなかれ」です。殺人が絶対的に悪であるのは神の教えだからです。向こうのPro-Choiceは絶対に胎児を人と認めません。科学の事実ですよーと言っても耳を塞ぎます。もしそれを認めてしまったら、彼らも普通に十戒は守らないといけないと思っているから、Pro-Lifeにコンバージョンするしかないんです。実際にそんな例は枚挙にいとまがありません。そういうわけで、Pro-Choiceという科学を知らない人たちに対する福音宣教が今年のMarch for Lifeのテーマだったんでしょう。

ーーー池田さんは、博報堂にいらっしゃった時代に『広告』という雑誌を通してソーシャルデザインという概念を積極的に日本に紹介したり、地域通貨の実験をしたり、打ち水大作戦という温暖化防止のための活動をしかけたりと、今に至るいわゆる”ソーシャルな”ムーブメントの先駆的な活動もされていました。私もですがそうした池田さんの活動から影響を受けた30代、40代はけっこういるように思います。
そうした活動をへていま、”Life”というテーマにたどり着いた。”Life”こそが社会的な活動のはじめりであり根本であるということなのかなと、そんなふうにも見えるのですが、振り返ってみていかがでしょうか。

池田正昭さん:当時はPro-Lifeという言葉も知らず、結果的にリベラルの片棒を担がされていたんだなと反省しています。私がバカでした。しかしイデオロギーとしてのリベラルではなく、人類の救いという意味でのリベラルが大切なのは言うまでもありません。反戦平和も、人権の拡張も、環境保全も、イデオロギーを抜きにすれば、SDGsではないですが、どれも人間の未来のために欠かせない達成目標です。
しかしPro-Lifeが土台になければ、容易にイデオロギーの餌食になります。産まれる前のすべての子どものいのちを大切にするうえでの反戦運動であれば、産まれる前のすべての子どものいのちを大切にするうえでの人権論議であれば、産まれる前のすべての子どものいのちを大切にするうえでの温暖化対策であれば、いずれも大きな実を結ぶことができるでしょう。子どもでもわかる、ぜんぜんまっとうな話ではないかと思うのですが。そう、子どもは100%Pro-Lifeですね。ちょっと話せばみんなすぐわかってくれます。ソーシャルデザインということでいえば、社会を変えるためにいちばん必要なことは、子どもに対するPro-Life教育ですね。

ーーー子どもたちがこのテーマをどう学んでいくか、わたしも大変関心を持っています。そのためにはまずわたしたち大人がそれを学ばないとあかん、と思います。そういう意味でも今回の集まりをご一緒できるのは嬉しいことです。
社会の様々な領域で死を隠蔽していくのが近代という時代である、という言葉をどこかで聞いたことがありますが、生も隠蔽され続けているのかもしれません。わたしの娘などは、近代の医療技術によっていのちを続けさせてもらったようなもなので、そのことにもちろん感謝と尊敬をしているのですが、今の世界、たとえば先ほどもお話にあった中絶を40週まで認める法案を祝うニューヨークの摩天楼のライトアップの風景を見ていると、近代という時代をどう乗り越えていくのかと思わずにはいられません。この集まりがそういったことのなにかのはじまりになったらいいなと思います。ありがとうございました。


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