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■地球に落ちてきた女性たち~STORYとしてのCosmic Explorer~

●はじめに

 2016年5月号の「装苑」で、Perfumeのコレオグラファーであり総合演出をも務めるMIKIKOはこう言っている。

「時々、なんでわざわざこんなに大変なことをするんだ!って思うんですよ」

 ただ振り付けをつければいいだけのところに、楽曲を読み解いた裏テーマを自ら設定。それに基づいて曲の意味をひもといていくような形で、振り付けによって曲のドラマを重層的に作り出していく。

 Perfumeと共に彼女が延々と続けているこの作業について、あけすけに語ったもので、観た者の心を一見にて掴み離さぬインパクト・観るたびに様々な印象・感慨を残す奥行き、Perfumeのパフォーマンスにそれらがビルトインされている所以がうかがえる証言だ。

 その作業の根幹となる楽曲を生み出す、中田ヤスタカの作業にも同じ事が言える。

 前作「LEVEL3」はライヴのためのコンセプトアルバムとして制作された傑作だった。Perfume6枚目のオリジナルアルバム「Cosmic Explorer」は、その「LEVEL3」もかすむ、極めて質の高いコンセプトアルバムだ。

 このアルバムで、中田はいつにも増して「なんでわざわざこんなに大変なことを!」という試みに挑んでいる。それは、抽象的だが明確に方向付けされた連続性のある情景と感情を、ストーリーを、音楽によって描こうという試みだ。しかも、プログレッシヴ・ロックの組曲的な結構に依ってではなく(つまりコンセプトアルバムを構成しやすい既知の方法によってではなく)、個々に独立した質の高い中田流ポップ・ソング、ダンス・チューンをその音像、曲想、詞の内容を勘案し意図的に(もしくは一定に方向付けられた感覚に従って)並べ、そのつながりに一貫したヴィジョン、強い連続性を持たせる、という方法によって。非常に困難な方法で、まさに「なんでわざわざこんなに大変なことを」と言うべき挑戦だ。だが、大いに成功している。

 このアルバムの達成は、以下の音楽史上の錚々たるストーリーアルバム、コンセプト・アルバム群に比肩しうるほどのものだ。

デヴィッド・ボウイ「ジギー・スターダスト」

ルー・リード「ベルリン」

ザ・キンクス「アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡」

ザ・フー「四重人格」

アフロディテス・チャイルド「666」

ヴァン・ダイク・パークス「ソング・サイクル」

グリーン・デイ「アメリカン・イディオット」

etc...

 コンセプト・アルバムという構想の本来的な重量感に対応した、重厚でしばしばパセティックな深度、文芸性を備えるこれら先行作品群に対して、中田とPerfumeの仕事は異彩を放っている。CosmicExplorerは、21世紀のコミック・サブカルチャー的だ。しかも、良い意味で。透明で深刻になりすぎない自己省察をふくんだ物語性・ポップさに彩られており、その軽快さが軽薄さとなるのではなく「冒険」「到達」「決断」「愛情」といった肯定的なモチーフをドライヴするように機能している。そして、アルバム全体が明るく前向きな、人間性への信頼を表明するコメントに充ち満ちている。

 これこそが「ポップ」であり、その最良の側面を濃密に抽出したものと感ぜられる。我々は、高度消費社会の刹那性と罪深さを心のどこかで嘆き諦めながらも、映画を、漫画を、アニメを愛し、ポップ・ミュージックを聴かずにおれない。

 その根拠を、Perfumeと中田ヤスタカはこのアルバムで表現し尽くしている。

●そのStoryを読む

 Perfume、中田ヤスタカ両者にとって現時点での最高傑作となるであろう「Cosmic Explorer」は、ある物語を描いている。

 明快なシチュエーションを描く散文的なトラックもあれば、中田本人が「映画のサウンドトラックのように」と称するごとく、一定の状況を想起させるだけの、雰囲気を描写する音像そのものが重要なトラックもある。中田は、物語がそこにあるかのように思わせるそれらの要素を、実際に物語を構成するかのように並べ、まるで伏線のあるがごとく編集することによって、曖昧だが確たるベクトルに方向付けられた物語的な連続性を生み出している。

 つまり、この物語は詩的な方法で記述されている。一定の方向付けはなされているものの、細部を明確に特定できるテクストが書かれているわけではない。そこに具体的に何を読むかは、聴き手個々の実経験や視覚的・音楽的経験に基づく想像力にゆだねられている。

 それゆえ、以下に記していく楽曲の、Cosmic Explorerが描くStoryの読みについては聴き手の数と同じだけある一個の可能性にすぎない。さしづめ「そう読めるんならそうなんだろう……お前の中ではな……」といったところだが、荒れ狂う不確定性と多層次元によってできあがっている織物、それが宇宙というモノらしい。そういう知見を少なくとも持ち合わせている時代の人間であるわれわれが、この「宇宙を往く(往った)探検者の物語」を読むという営為、その「読みの身勝手な主観性」も、それ自体が宇宙の不確定性のひとつの現れとして回収されうる、論理的一貫性を持ち合わせているといえるのではないだろうか。

●01. Navigate

 ミニマリズム・エレクトロ本道を往く音像で、アルバムは幕を開ける。

 単純なモチーフのRefrainは、それ自体が続くCosmicExplorer(曲)を底流で構成するバリアントでありつつ、端的に、衛星軌道における宇宙漂流を想起させる。その、超高速で雄大な周回の感覚を聴き手の耳に刻み込んだ後、第二宇宙速度による軌道の離脱を連想させる絶妙なタイミングのブレイクが訪れる。

 虚空への旅が始まるのだ。

●02. Cosmic Explorer

 空気はなくとも、量子は荒れ狂っている。虚空の寄る辺なき浮遊感を打ち破る声がきこえる。呼び水としての節を欠いた言葉から……ポップソング的にはいきなりBメロから……始まるその女性の歌声は、その寄る辺なさを否定的に捉えては居ないことが、すぐにわかる。

 前も後ろもあらかじめ定められていない、しかしだからこそ決然となされる進軍の、盲目的なエネルギーが詞を通して、曲全体を通して表される。

 U2「The Joshua tree」の冒頭を飾るWhere the streets have no name、あるいはArcadeFire「Funeral」のアドレッセンスの劈頭に歌われるWake Up。それら名アンセムのPerfume/中田ヴァージョンと言いたくなる、前向きな名曲だ。

 思えば、Where the streets have no nameもWake Upもあえて根拠もなしに選び取られる盲目的な希望の力を、虚無と対置するようにして書かれた対位法の歌だった。この歌も同じだ。

 リズム、特にエコーをカットしたドラムサウンドの力強さが、途方もない楽観性を前へ、前へと押し出していくパワーとなっている。虚無の中にありながら、祈りとしてではなく希望として、野心として奇跡を望む女性の物語の輪郭が、続く2篇の強力なダンスチューンによって肉付けされていく。

●03. Miracle Worker

●04. Next Stage with YOU

 自らの胸に宿る希望を道しるべの光として往けば、闇は闇でなく、虚空は虚空でなくなる。この2篇では、そう振り切った女性のセクシャリティ、宇宙的なかわいげのきらめきとでもいうべきものが描かれる。宇宙を、力強く、軽やかに、そして伸びやかに楽天的に虚空を進んでいく女性のイメージが目に浮かぶようだ。

 冒頭の4曲が聴き手に与える印象が示すとおり、この物語の「宇宙」は、昨今の物語芸術の世界におけるトレンドとは真っ向から反するものだ。90年代以降(厳密には80代以降)から現在に至るSF・SF映画などにおける宇宙像、宇宙を舞台にした物語像は文芸的にも視覚表現的にもより現実的で、分析的で、考証的にコレクティヴなものになっている。大きな果実を数えきれぬほど実らせてきた方向性だ。

 単純に第二次世界大戦からの復興(所謂”黄金時代”)の高揚と連結されて、宇宙開発や宇宙探検というモチーフが想像的な、夢のある、前向きで肯定的なイメージに彩られていた60年代~70年代の楽天性は、そこではオミットされてきた。「現実的」でないからだ。

 けれども、そこでいう「現実」とはいったい何なのか?

 「現実」的な現状認識がただの「重力」の追認になってしまうのならば、想像力は希望をじゅうぶんに描きうるだろうか?

 「グラヴィティ」や「火星の人」の登場を待つまでもなく、2010年代という時代は、われわれの想像力にとって意味のある「リアリティ」とは何か、という問いを今一度更新することを要求している。

 そういった文脈に連結するような楽天性が、この2曲では中田ヤスタカ流のミニマルな構成の中で鮮やかに蘇っている。

 それにしても、「現実的でない宇宙」を捨ててきた歴史の桎梏をこれほど軽やかに振り払って、ポップカルチャーにとって望ましい楽天性を蘇らせるのに、Perfumeほどふさわしい存在がいるだろうか?

●05. STORY

 この物語が、70年代における宇宙のイメージの楽天性を単に振り返るだけのものではない、ということ、そのアンビエントが、この曲によってもたらされる。

 インダストリアルで、プログレッシヴで、暴力的ですらあるアンビエント。そういったものが頑是無い<声>と結びついたときにうまれる奇妙な現実感は中田ヤスタカとPerfumeが折に触れ投下してきた名曲たち(GAME、edge……)の流れを汲むものといえる。その最新ヴァージョンであるSTORYは、軽やかさではなく重さを、しなやかさではなく堅さを、優しさではなく酷薄を、癒やしではなく力を、ようするにこの軽やかな物語にとっての「重力」「壁」を象徴する切迫性を、アルバムに刻み込む。この暴力の感覚に介入され、その残響と対置されるからこそ、CosmicExplorer全編の柔らかさ、美しさが際立つようになっている。

 宇宙を楽天的に旅し、おそらく目的であったはずの惑星をみつけた女性。大気圏突入のサスペンスを思わせる音像、カウントダウン。このアルバム随一の緊張感と死の感覚であり、その効果は上記のごとく機能している。

 が、その感覚が晴れると……

●06. FLASH (Cosmic Explorer version)

 一気に、雄大で美しい自然が眼下に広がる。死と困難を通り抜けたからこそ感ぜられる、生命の美、生きていることの喜びが音で、言葉で表現される。

 この曲のオリジナルヴァージョンは、競技かるたに青春を賭す少年少女をモチーフにした漫画「ちはやぶる」の映画版主題歌として制作された。百人一首の文芸的なディティールと競技かるたの閃光のような瞬間と、一瞬で過ぎ去る思春期の生の価値を重ね合わせ、絶妙にブレンドした思春期ソングの傑作だ。

 中田はそのエレメントを、バックグラウンドとなる音の像、リズム、アンビエンスを変えることで、

*百人一首のディティール、競技かるたの閃光=ひとの目に入る自然の価値と脅威

*思春期の生の価値=生きていることそのものの価値

 と、それこそ和歌における本歌取りのように鮮やかに読み替えてみせる。そして、楽天的に伸びやかに宇宙を旅してきた女性が、虚空からまったく別種の空間(惑星)に突入する……境界を越えることの困難と暴力、リスクに直面し、そしてこれを生き延び、生命に満ちた新しい世界に飛び込み得た開放感、喜びの物語に変換することに成功している。

 一聴すればわかるとおり、その効果は絶大だ。

 多くの若いリスナーを爆発的に獲得したFLASHのシングルバージョンがPerfumeにとって新たなチョコレイトディスコ、新たなポリリズムとなる可能性は高い。が、CosmicExplorerの物語にとっては、このアルバムの構成にとっては、このver以外考えられない。

●07. Sweet Refrain (Cosmic Explorer version)

 虚空を越え、新たな世界に到達した女性。彼女がそこで経験する生は「劇的な危機を乗り越えた劇的な人生」ではなくただの「繰り返しという平凡」であることが描かれる(曲の配置によって、そう読み取れる文脈がうまれている)。

 裏切られ矮小化された期待を嘆くのではなく、軽やかな自嘲や一抹の切なさとともに事態を明るく受け入れ絶望をひらりと交わしていく中田ヤスタカ流ポップソングの奥義が凝縮された曲であり、そしてその聞き所に相応しい構成上の位置づけを与えられているといえる。

 とりつくしまもない旅を続けてきたこの女性が、我々にとって近しい大地に降りてきたのだということ、行き着く果てのフォルムやサイズで自らの「希望」を測るような人物ではない、という感覚が、ここではみごとに描写されている。

 奇跡を起こそう、といって宇宙を跳んだ彼女が、繰り返しの平凡にふれ、その平凡の中でこそ奇跡が起こる。

●08. Baby Face

●09. TOKIMEKI LIGHTS (Cosmic Explorer version)

 古今の物語、ポップソングが維持してきた、世界を肯定するための構造が、宇宙からきた女性が出会う年下の少年、少年の無邪気さ、純粋さを肯定すべき価値として受け入れる、というセッティングで駆動する。宇宙を旅し、探し、見いだされた小さな奇跡。

 BabyFaceが出会いの歌であるなら、端的に言ってTOKIMEKIはセックスとそれによって変質する情緒的紐帯の歌だ。その、煌びやかな生々しさのうちで、奇跡は現実に変わっていく。だが、その現実は手応えのある重みで、重力下ならではのリアルな速度を疾走に与える(既発シングル曲のCosmicExprolerversionがいずれもシングルヴァージョンのキラキラとした浮遊感ではなく、しっかりとしたボトムのあるサウンドに変貌しているのには意味がある)。

 ポップソングの聴き手として嬉しいのは、サウンドやコンセプトがどれほど先鋭的になろうと、こんな使い古されたモチーフ(奇跡は凡庸さのうちにある)を中田が忘れず、むしろてらいなく扱うこと、それを表現するのにPerfumeは最適な存在であるという価値をがっしりと掴んだまま、ひたすらにど真ん中を打ち抜いてやまないことだ。

●10.Star Train (Cosmic Explorer Version)

 なぜ、和太鼓なのか。

 アーシーな感覚が必要だった。

 なぜアーシーな感覚が必要だったのか。

 シングルリリースされたStar TrainとCosmicExplorerversionは、その意味と物語がまるで異なる歌になっているら。

 もっと明確に書こう。

 CosmicExplorerのStar Trainは、宇宙をいくStar Trainに乗ってどこかへ(夢へ)向かおうという歌ではなく、地上(地球)で生きていくことを心に決めた「地球に落ちてきた女性」が(おそらく、地上を離れるために彼女が搭乗するはずだった)夜空を行くスタートレインを見上げ、地上にしっかりと足をつけて見送る、という歌になっている。だから、大地に足をつけているという感覚がサウンドレベルで必要だったのだ。

 それでも、この歌の肯定的なメッセージが揺らぐことはない。揺らぐばかりか、シングルヴァージョンよりずっと説得的で普遍的で、力強いものになっている。

 オリジナルのStar Trainは、ただの「Perfumeの物語」「Perfumeの来し方と行く末を言祝ぐためだけの物語」に還元されてしまうきらいがあった。それがCosmicExplorerの物語への代入によって、歌の担い手が占める立ち位置の転換が生じた。人生を変える、しかしその成就には何の保証もない大きな決断をした・これからするかもしれないすべての人についての歌に、クラスチェンジしているのだ。

 Star Trainはどこかへ飛んでいく。新たな希望をもつであろう者のために。それは自分ではない。が、可能性という宇宙を失うこと、それは切なさではあっても哀しみではなく、(無辺の可能性としての)希望を手放したとしても、人生は続く。その有限性には意味がある。希望以上の意味が。そう決意して、地に足をつけて生きることに意味がある。

 無責任な人生応援歌ではない、重要なコメントがここにはある。

 CosmicExplorerの物語に配置されることによって、Star TrainはPerfumeが欲すべき、普遍的な歌となる資格を獲得したと思う。

★転調する物語

 本来であれば、この「地球に落ちてきた女性」の物語は、地上に足をつけた彼女が「走れ、スタートレイン」と、可能性の宇宙との別れを歌うところで終わって良いはずだ。

 が、このアルバムの面白いところは、きれいにキマった傑作として語る以上の余白が最後に残されているだけでなく、この女性の物語が「どこかで終わる」「物語のように終わる」のではなくいつまでも開かれていくような余白となっているところにある。

 Relax In The City~Pick Me Up~Cling Cling~Hold Your Handによって構成される最終パートはある種パセティックな覚悟とともに地球に残ることを決意した女性の物語が、いかにも物語の結末的な決断の重さに閉塞するのではなく、どこまでも続くのだという感覚を刻み込んでいる。

●11. Relax In The City

●12. Pick Me Up

 アルバムを締めくくるこの最後のパートは、さらにいろいろな読み方が可能だ。CEの文脈に置くことによって、既発曲の歌としての意味やニュアンスがかわる、曲によっては大規模に変わる。

 CosmicExplorerの文脈に配置されることによって、Relax in The cityは、この地上で(地上の街の中で)生きていくことを決意した女性の、前向きなテンションを秘めたひとときの安らぎの時を思わせる歌に変貌しているし、Pick Me Upもそのような変貌を読みうる一曲になっている。

 本来この曲(Pick Me Up)の「私」は物語の(歌の)主人公だ。その「私」を現在から引き上げてくれる奇跡(「君」)についての歌が本来のPick Me Upだが、CEの文脈と物語性の磁場によって、この「私」が誰なのか、私を引き上げる「君」とは誰なのか、解釈の余地がうまれるようになっている。

 Star TrainとRelax in The cityによって描かれる、自らの運命を自ら決し、穏やかに前を向いたこのアルバムの物語の主人公(CosmicExplorer)は、奇跡を待つ必要はない。物語が描いてきたように、彼女はその冒険すでに奇跡と出会っており、掴んでもいる。

 つまりこの歌における「私」はCosmicExplorer自身ではなく、彼女(彼女=奇跡の到来を)を待つ他の誰か、ということになる。

 それは誰か?

 いくつかの可能性が考えられる。

 ひとつは、彼女がたどり着いた地球で出会った彼(彼女かも)。

 もうひとつは、続くCling Clingで登場する「子供」。

●13. Cling Cling (Cosmic Explorer Version)

 Perfume唯一の(と、言って良いだろう)子供についての歌。

 ここで取りざたされる存在が、誰の子供かはわからない。「地球に落ちてきた女性」が出会った人物との間の子供かもしれないし、オリジナルヴァージョンのMVでの解釈のように、歌い手に救われる孤児かもしれない。いかなる設定でも、この歌は成立する。

 重要なのは、この歌がアルバム中初めて現れる「自分についての」歌ではないという点だ。

 そう解釈すると、Star Trainで地上に残ることを選択し、Relaxでやすらぎながら前を向いた「彼女」がその後どういう人生を選んだのかがぼんやりと理解(解釈)できる。

 それは、自分でない誰かの希望、助けになるような道を歩む人生だ。

●14. Hold Your Hand、そして締めくくりとして。

 あれは確か、3569後の「音楽と人」のインタビューだった。「(これからの活動は)もう自分のためじゃない」という意味のことを、のっちが言っていた。あの3569というライヴの、驚くべき達成とキャリアの総括を経たうえで表現者としてのPerfumeが向かうべき方向性を、彼女らしい言い方で端的に表現した発言だったと思う。

 このアルバムの締めくくりに、自分ではなく他者の哀しみを優しく慮るこの名曲が配されているのは、ここまで描かれてきた「地球に落ちてきた女性」の物語をひどく人間的に・美しく締めくくるとともに、過去とは違う意味と熱量で「私」から「あなた」へと向かうPerfumeの成熟(はっきりと成熟といえる)をも重ね合わせているといえる。

 Perfume自身の過去・現在・未来への道行が、色合いと優しさ・情感をより増した彼女たちの声が、そしてそれに相応しい曲想、詞とともに率直に刻み込まれたHold Your Handによる終幕が、何かを希求する人間全てにとっての物語であるCosmicExplorerに、単なる抽象では終わらない重層性、手応えを塗り込んでいる。

 Perfumeは、彼女たちがライヴで表現している、あの愛情と喜びに満ちた「幸福でいよう」という感覚、波瀾万丈のキャリアで積み上げてきた否定しがたい手応えのある絶対的な表現強度で、異常な説得力を持ってぼくたちに伝達し続けてきたその感覚を、ついにアルバムに刻み込むことに成功した。

 この一点のみをもってしても、CosmicExprolerが彼女たちの最高傑作であり、ひょっとしたら第二のデビュー作といえるほどの作品であることが理解されよう。この豊かな作品を新たなスタートラインとして、Perfumeと中田ヤスタカは、これまでより広汎なより様々な人の心に届く、成熟した歌を作り出していくのではないだろうか。Perfumeと中田ヤスタカはこれまで様々な革新をものしてきたが、このサウンドスタイルでそのような音楽的成熟を目指すことは、これまでで最大の革新となるに違いない。

 その成熟と達成、さらにその先にあるものを強く期待しつつ、いったんの筆を置くことにしたい。(了)


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