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まいあがる!

アナログ作家の創作・読書ノート     おおくぼ系

 

 なにごとにつけても、突然に舞い上がる瞬間があり、それも一定の間隔をもって起こるように思える。

 さらに素晴らしく良いことや反対に至極残念なことは、一定の波動をともなってくり返しているのだと感じる。舞い上がる山と滑り落ちる谷が、お互いに作用しあっているとは思えないのだが、なんらかの関係もあるようだ。

 

 身近なところでの一例として、ホトケのような人と、云われる友人が東都にいる。彼の親切さは、他人がまねのできないほど天性のもので、新作を刊行したときに紹介されてあいさつにうかがったのが始まりであった。それなりのポストもあり、いわゆる〈オエライ様〉であったのだが、まことに人あたりが良くて過剰というほど親切であった。

 〈花椿の伝言〉をもって上京した時、彼は私といっしょに行動してくれて、いろんな方々を紹介していただき〈おおくぼ系〉を売り込んでくれた。それは感無量であった。また、新宿を中心とした夜の街を案内してくれて、彼のおかげでゴールデン街を知り、〈一歩〉というなじみの店もできたのだ。

 

ただ。後にわかったことなのだが、彼は酒が入ると潰(つぶ)れやすかった。いつも飲みすぎるのである。神田駅近くの友人の小料理店で度々飲んだが、その日もけっこう酒が入っていた。彼や店主、系どんを含め四人でテーブルを囲んでいたのだが、向かい側の席の彼がとつぜん顔を寄せてきて、なんだろうとこっちも顔を出した。と、突然に頭突き一発が飛んできた。一瞬、なんなんだと痛みにめんくらったが、彼の身体は酔いで揺れている。そして椅子から崩れ落ちた。それからが大変だった。酔った彼の肩をかつぎながら神田駅まで運んだが、その間持っていたカバンを落とし、中のものが散らばり、さんざんであった。

なんとか駅までたどりつき電車に乗せたのだが、果たして無事家まで帰れたかと心配した。店主に言わせれば毎度のことのようであり、山と谷の落差がありすぎる人なのだと思うようになった。

 

だが、彼のおかげで東都新聞などへ〈花椿の伝言〉の書評を掲載してもらい、小説がそれなりに読まれたのである。

この時期は、けっこう坂の上の雲に向かって、歩いている感があったが、ここあたりがピークであった。

 

季刊の九州文學に毎号でも作品を掲載してくれと、小説を集中的に書き出してしばらくたち、表紙に系どんの名が載るようになったころ、講評を担当している文芸評論家の志村有弘先生からの紹介ということで、これも突然に、執筆依頼の手紙が飛び込んできた。このときも舞いあがったのである。しかし、勇んで12項目の原稿をあげたものの、結末として、依頼のあった〈戦国逸話伝説総合辞典〉の発行はうやむやになった。 

 

意気消沈していたところ、一年半後に新たに〈古事記の真相〉への執筆依頼が届き、今回は綿密な取材の後、原稿をまとめて提出し、半年後に無事出版された。さらに志村先生のご厚情により雑誌へのエッセイも執筆させていただいた。

また、拙作〈ブーゲンビリアの花〉を専門誌の出版社あてに送ったところ、編集長さんがブログで紹介してくださり、恐縮していたところ、当該雑誌の巻頭エッセイを書いてみないかとの連絡があった。チャンスとばかりに練った企画書を出したが、あにはからんや編集会議の結果は、系どんより、より著名な方への執筆をお願いすると決まった。また失意を味わったのである。

 

このように、まい上がったり、下がったりしながらのいろいろな波動を経験しながら、長期の波動、運・不運の大きな波もあり今に至っている。

 

 で、話はもどり、やはり文化の中心は東都であり、先の友人に紹介してもらったゴールデン街の〈一歩〉のことである。この店は、SM小説の権威といわれる団鬼六先生の行きつけであったことは前に述べたとおりであるが、止まり木にかけるたびにママさんから団氏についていろいろな話をうかがった。

将棋や出版関係者も多く、〈スペッキオ43〉という文学同人誌をいただいた。

 この雑誌で目を引いたのが、表紙に記載された〈遠景 勝目梓〉という大きな文字である。勝目梓といえば、ハードバイオレンスものの流行作家であった。

それで勝目氏について知りたくなって調べてみると、氏は純文学を目指していたが、40歳ごろを契機に大衆小説に転向したのだった。

 

 勤めながら作家を目指していた勝目氏は、作家の保高(やすたか)徳蔵(とくぞう)が、新人の育成を目的とした同人誌〈文藝首都〉へ参加する目標をさだめ、投稿を始めたが、そこへ中上健次が同人として参加する。中上の文学への情熱についてはハンパなく、勝目は、自伝小説〈小説家〉のなかにおいて、

――中上健次のように、書かずにいられないものを内に抱え込んで、頭の中は四六時中文学のことでうめつくされているといった人間でなければ、あえて世に問うほどの意味のある文学作品は生みだせないのだ――

――彼は(勝目)は中上健次と違って、自分の中にのめりこんでいくのが苦痛でならなかった――

 さらに、文学の一言居士の聖人として文学仲間から詣でられる、森敦との出会いがあり、後に森氏は61歳のときに〈月山〉で芥川賞をとった。

私淑する勝目に。聖人はいうのだ。

――小説の極意はそれを隠そう隠そうと念じながら書くことなんです。それから命題が奥へ奥へと導かれていくのは、時間というものが実は、奥へ奥へと進むように組み立てられているからなんです――

 

 勝目は文学の深淵さに接して、自身の抽象能力の低さに嘆き、葛藤を経たのち40歳を境にして、いままでの純文学に別れを告げて、大衆小説へと進路を変える。

――そして彼(勝目)は、純文学はアマチュアでも書けるだろうが、娯楽小説はプロフェッショナルな技能なしには書けないぞ、ということを痛感した――

 

 方向転換した勝目氏にスポーツ新聞から連載の注文があり〈さそり座の女を追え〉という官能色と暴力性を表す情念小説を書いたのだが、期待に反して評判は良くなかった。だが、のちにこの失敗作を書き直し、改題して発行した作品〈獣たちの熱い眠り〉がベストセラーになったのである。同時に仕事の注文が殺到し、月産1000枚を書くという殺人的な超人気作家となった。

 

以前、雑誌の編集者に聴いたことだが、何がヒットするかは予測がつかないという。

紆余曲折、人そのものも固有の振動数をもつというが、作品の気が合う、時代にのるというように作品もテンポ、リズムがあり、時代の波とかかわりあうものらしい。

 

概して、純文学はゆったりと流れるものが多いし、ミステリーやハードボイルドはテンポで読ます。系どんが文学的素養が欠落していると感じるのは、この自身のリズム感覚が要因かもしれないと考える。

 

いずれにしても一度は、小説家として天高く舞い上がってみたいものである。あとはどうなろうとも・・・(笑)


                (適時、掲載します。ヨロピク!)

 


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