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着飾る事は自分自身を愛おしいと思うための手段。

人生初のネイルをしてきた。33歳にして、初ネイルである。

見て。これ。可愛いでしょう。

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普段は少しだけお堅い仕事をしているからネイルはご法度なんだけれど、今は育児休業中。憧れのネイルを施してもらった。ほんの、つい先ほどである。

お気づきの通り私の爪はかなり短く小さい。爪の根元のダメージが強くて、強い爪が育ちにくい。形も歪だ。ネイリストさんがきれいに施してくれたおかげでとても美しいけれど、素の爪の表面はガタガタの二枚爪なのだ。

幼い頃から咬爪症だった。文字通り、爪を噛む癖である。

血が出るほど爪を噛み、皮を毟ってしまう。バカバカしいと思っていても辞められない。

爪を噛んでいる姿は醜い。その自覚も十分あった。それでも辞められなかった。誰かに注意されても、どんなに血が出ても辞められなかった。指が痛んで、膿んで、情けなかった。今度こそもう二度と噛まない、毟らない。そう心に誓っても、辞められなかった。

本来は小児期で自然に治るとされるこの悪癖が、私の場合は成人しても治らなかった。社会人になり、人前に出るようになってから少しはましになったものの、完治はしなかった。

“癖”と一言で片づけられるほど単純な行為ではなくなっていたのだった。精神的な揺らぎと爪の状態は比例したし、噛まないと安心できなかった。

殆ど、自傷行為に近かった。

そんな自分と決別した。それが、今日だった。

変わりたい、という衝動はいつも突発的だ。

その衝動が初めて私を突き動かしたのは中学生の頃。母が不在の時間を見計らって、こっそり母の化粧品を拝借したのが始まりだった。眉を整えるだけで少しだけ垢ぬける事実が嬉しかった。瞼の上にアイシャドウやアイラインを足すと、コンプレックスだった小さな目を少しだけ愛する事が出来た。

初めてピアスを開けたのが高校入学前。

友人とショッピングモールで待ち合わせして、そこでピアッサーを買った。痛みがマヒするようにとフードコートの無料の氷で耳たぶをキンキンに冷やした。何個目かの氷が溶けた頃、意を決してお互いの耳たぶにピアッシングした。ガションという音が響いた後透明なピアスが耳たぶにしがみついていて、友人と安堵して笑い合った。耳を何度も触って愛でた。

あと数ミリ二重の幅が広かったらいいのに。
あともう少し鼻が高かったらいいのに。
もっと肌がきれいだったらよかった。
もう少し身長が高かったら、もう少し足が長かったらいいのに。
髪の毛がもっと茶色だったらいいのに。

それを叶えてくれる手段を、私は少しずつ知っていった。

似合う服装は何だろう。
似合う髪型は何だろう。
美しく見える色はどの色だろう。

そう考えて、実行していく。そうすると、鏡に映る自分を少しずつ愛おしいと思えるようになっていく。お洒落をしたり、自分に似合うものを吟味したり、研究したりする度、自分の中に愛おしいものが増えていく。

私にとって着飾ることはきっと、自分を愛おしいと思えるようになるための行為だ。

私は今日、咬爪症と決別した。眠れない夜もまだある。悪い夢を見ることもまだある。それでも変わりたい、という衝動を感じた。

初めて化粧をした時と同じ、初めてピアスを開けた日と同じ、“自分自身を愛おしいと思えるようになりたい”という、強い衝動。

あんなに醜くて嫌いだった爪が、今とても愛おしい。また一つ、愛おしい物が増えた。

コロナ渦で家に閉じこもりっきり。化粧をしても、お洒落をしても、ネイルをしても、誰にも会わないし会えない。どこにも出かけられない。

それでも私は化粧をするし、お洒落もする。

出かける場所はスーパーと、コンビニと、長男の保育園の送迎くらい。
「誰も見ていないよ。」という人もいるけれどかの為にそうしている訳じゃない。

私の事を見ているのは私自身だ。私が見ている。私自身を。

自分自身をきちんと愛する私でいたいから。

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