見出し画像

祈ること、開くこと(後編)

インドの果ての修道院

 2017年1月の満月の後、私はティルバンナーマライから、ナーガルコイル行きの寝台バスに乗った。目指すはインド最南端の地カンニャクマリ。そこにはジョシーの妹の一人が修道女として住んでいた。
 ジョシーは一昨年の足の再手術をしてから、一人で生活するのが難しくなったので、アレッピーの妹の家と、カンニャクマリの妹の修道院を行ったり来たりしている。家族は当初、彼を高齢者向けの施設に住まわせようとしたが、生来の気ままで破天荒な性格が、怪我をしたからといって治るわけでもなく、規則に従わないので、追い出され、結局は家族で面倒をみることになった。ジョシーがいつどこへ行くかは家族の都合で決めるので、予想がつかない。しばらくアレッピーにいたと思ったら、いつのまにかカンニャクマリへ移動していた。
 カンニャクマリとティルバンナーマライは同じタミル・ナードゥ州なのでバスの接続が良く、寝台バスで横になっていたら、あっという間に近郊の町ナーガルコイルまで着いた。そこからオートで30分ほどで、妹が住んでいる修道院に着いた。

 ジョシーは2016年の9月ごろからそこの修道院の離れに数ヶ月住んでいた。家族といっても出家している妹の、しかも女子修道院に、一緒に住めるものかと思ったが、そこはインド、何かと融通が効くのだろう。しばらく平穏に暮らしていたようだが、12月の半ばに玄関の階段から落ちて、右肩の脱臼と右肘の骨にヒビが入ってしまった。その怪我自体は大したことはなかったが、もともと右半身のバランスが悪かったうえに、右手が使えないので、食事や入浴、トイレなど、ヘルパーが必要な状態らしい。修道女の妹は教会が運営している高校の校長先生をしているので忙しく、今はドバイで働いていた弟がちょうど引き上げてきたばかりで、彼がジョシーの面倒を見ているとのこと。

 修道院に着いてみると、ジョシーはちょうど病院の検査に出かけていて留守だった。しばらく待つと車に乗ってジョシーと弟が帰ってきた。車から降りてきた彼は、右手にサポーターをして、車から降りるのも介助が必要だった。右腕は良くなってきているので、もう一週間サポーターをしてなるべく動かさないようにとのことだった。ドバイ帰りの弟、チャコチャンに会うのは二度目だ。ケーララでは名前の後ろに愛称として「チャン」をつけて呼ぶ。意味合いも日本の「ちゃん」とほぼ一緒。彼の名前はチャコだからチャコチャン。日本人なら一度聞いたら忘れない名前だ。名前の語尾の音節で相性の呼び方は違うらしく、ジョシーの場合はジョシー・クティでジョシーちゃん、という意味になる。
 ジョシーと兄妹たちの関係は、事故の後、とくにジョシーがインドに帰ってきてから、ぎくしゃくしていたが、唯一チャコチャンとは良好な関係を保っていた。彼とは私もよく電話で話していた。独身で、ずっとドバイのホテルでシェフとして働いていた。飲み過ぎると性格が変わるのが玉に瑕だが、オープンで明るい性格、細かいことは気にしない。外国人慣れしているので、私も色々話がしやすく、実際彼がインドに帰ってくることで、ジョシーと家族の関係も少しは良くなるのではと期待していた。
 「やあ、よく来たね!待てったよ。実は明日からアレッピーに帰る用事があるんだ。一週間で戻ってくるから、その間ジョシーの面倒をよろしく頼むよ。」彼に会うなりいきなり言われた。
 「とにかく、一週間サポーターを外さないように見張ってて。油断すると、すぐ外そうとするから。それで一回肩の関節が外れて、治りが遅くなってるんだよ。」
 ジョシーに会うのは9ヶ月ぶりだったが、以前にも増して驚くほど身体機能が落ちていた。動作は非常にゆっくりで、肩が前に落ちてしまうせいか、腰が曲がっている。ベッドから起き上がるのも、寝かせるのも、手を貸さないとできない。去年はゆっくりながらも、日常の動作は普通にできていた。右手を怪我しただけで、これだけ体が動かせなくなるものなのか。
「はは、急にオールドエイジホームに来た感じだろ。僕も先月のインドに引き上げて来て、2日後にジョシーが怪我したからそのまま介護して、ほとんど何処にも行ってないんだよ。この修道院の人たちは昼間はみんな働きに出てしまうから、ここはお手伝いの女性と、修道院長しかいなくなる、食事は彼女たちが作ってくれるから、その他の面倒をよろしく頼むよ。」

 そしてティルバンナマライの瞑想生活から、カンニャクマリの修道院での暮らしが始まった。修道院はカンニャクマリの町外れにあり、ヤシの木のプラテーションに囲まれていた。インド最南端、アラビア海とベンガル湾とインド洋が出会う場所、インドで唯一、海から日の出と日の入りを見ることができる聖地だ。広大なインドのどん詰まり、海に突き出たその岬は風が強く、南のトロピカルな気候でありながら、不思議な最果て感があった。修道院は一日中風が吹き抜け、風に揺られたヤシの葉が、波のようにざわめく音が聞こえていた。
 カンニャクマリはタミル・ナードゥ州だが、この修道院で暮らしているシスター達はほとんどがケーララから来た女性達だった。インドでもアラビア海沿岸はキリスト教徒が多い地域だが、ケーララはとりわけ古いキリスト教の歴史を持つ。伝説によれば、イエスキリストの死後、弟子の一人だった聖トマスは、海を渡ってケーララ州に上陸し、そこで七つの教会を建てたという。つまりケーララのクリスチャンは聖トマスの時代から信仰を受け継いで来たのだ、と彼らは誇りを持って言う。その伝説には諸説あるものの、かなり信憑性の高いものらしい。実際15世紀にポルトガル人がケーララ州にやって来た時、すでにこの地にキリスト教を信仰する人々が暮らしていた。彼らはシリア正教徒で、その後カトリックの教会組織に属した人々と、そのままシリア正教会に所属した人々がいる。前者をシロ・マラバールと呼び、後者をマンガラと呼ぶ。さらに、ポルトガルの上陸後に新たにカトリックに改宗した人々、プロテスタントになった人々等、といくつもの宗派がケーララの中に折り重なって存在している。それでもケーララのキリスト教とは州全体の25パーセントにすぎないらしいから、いやはや本当にインドは広いのだ。
 

 ちなみにジョシーの家は、シロ・マラバール、古くからのシリア正教徒で、カトリック教会に所属する人々だ。親戚にも神父や修道女が多く、その中でヨガの道を追求したジョシーはかなり異色の存在で、若い頃は随分色々と言われたらしい。伝統社会に反発し、自分自身のスピリチュアルな道を探求し続けて来た彼が、こうして年老いて身体が不自由になり、修道院のシスター達の世話になるとは、なんとも皮肉な巡り合わせに思える。
 修道女たちは、早朝のミサを済ませたあと、日中はそれぞれ職場があって働きに出て行く。病院や学校など人と触れ合う社会奉仕活動が主なので、修道女になるにはある程度の家の娘でないとダメらしい。出家したあと、どこまで教育を受けさせるかで、かかるお金も変わって来る。一生独身で過ごすとはいえ、住む場所も食事も仕事も保証されているし、ここの修道院は食事の支度や掃除などの雑用は、住み込みや通いの女性達が請け負っている。出てくる食事も、ガーデンで収穫されたオーガニックな野菜や果物、おやつも何かと充実している。働かない呑んだくれ亭主なんかとうっかり結婚して苦労するよりは、女性が自立して生きられる修道女の人生は選択肢としてありなのかもしれないと、思う。
 
 ここに来る前は、これからの行く末や自分の気持ちなど、あれこれ悩んでいた私だが、実際に目の前に助けの必要な身体がある現実と向き合うと、つべこべ言う暇はなかった。それが自分のやりたいことか、やりたくないことか考える前に、やるべきことをただやるしかない。
 「判断しないで物事を見る」「全てを手放す」「マインドではなく、ハートを使う」などなど、ティルバンナーマライでのサットサンで繰り返し聞き、その度に深く頷いていたことを、ここでどこまで実践できますか?と問われているような気がした。
 しかし現実は、1日目ですでにめげそうになった。昼間はまだいいのだ。大変なのは夜だった。一日中横になっているせいか、寝つきが悪く何度も目覚めてトイレに行きたがる、その度に私は起きて彼の身体を介助しなければならない。しかもちょっとでも雑に身体を扱ったり、集中力が散漫だったりすると、機嫌が悪くなる。
 そして、事故の後遺症である記憶障害も進んでいるのだろう、半分寝ぼけて訳のわからないことを言ったり、何かを探し始めたりすることも多かった。つまり、ほとんど要介護老人の状態なのだった。夜中に何度も起こされて寝不足気味で、昼間はぼーっとしてしまう。加えて修道院は食事の時間が早いので、毎朝習慣にしていた、ヨガや瞑想もする時間が取れない。



 

わからない、ということに開く

一体どうして1年でこんなに衰えてしまったのだろう。去年は少なくとも身の回りのことはちゃんと一人でできたし、アーサナもやっていた。ローカルバスに乗ってそこそこ遠出もした。ちょっと大変だったけど、一緒にアンマのアシュラムに泊まりに行ったりも出来たのだ。       
 右手を負傷するまでは、修道院の離れで一人で寝起きしていたというのに、どうしてしまったのだろう。よく老人が骨折などして寝たきりになると、急にボケるというが、似たようなものだろうか。ジョシーはまだ70前だが、交通事故のダメージが衰弱を早めているのだろうか。足の再手術の時にかなりエネルギーを奪われたのかもしれない。
 尊敬していた、ヨガの先生がこんな風になってしまう。その身体の現実に、私は途方にくれ、問いかけずにはいられなかった。一体全体どうして彼の体は次々とこんな痛みを背負い続けるのか、神様はこの身体で何を表現しようとしているのだろう?
そしてもう、彼はもうこの身体から出て行こうとしているのだろうか。 頭は必死に答えを求め、何か理由を探し出そうとする。
 自分に何かを教えてくれるはずの師匠が、会うごとに衰えてゆくことに絶望し、怒りすら覚え、去年はあれができたのに、もうできなくなってる。こんな簡単なことも大変になった、などとジャッジメントを繰り返してしまう。

 しかし悲しみに暮れているばかりじゃ仕方ない。感情に流されて嘆き悲しむだけなら、なんのためにヨガや瞑想をやっているというのだ。ここまで来たら、学んだことを総動員して、できるだけ曇りのない目で、起こっていることに向き合ってみるしかない。
 
 彼があるがままの彼であることを許すこと
 私があるがままの私であることを許すこと 
 
 自分が握りしめていた、期待や夢や希望を一旦手放して、ただ見ること。
 すると私は思考が掴み取れない、生の深淵の中へ真っ逆さまへと落ちていった。そこにあるのはただ、わからないということだった。
 何故、こんなことが起こるのか、なぜ私がここでこんな事をしているのか。結局のところ、私は何一つわからないのだ。わからないということの中に深く開いて行ったとき、そこには波の立たない静かな海があった。
 私たちが生きている、そのこと自体が途方もないミステリーなのだ。そのミステリーを生きること。そこにくつろぐ時、思考は止まり、祈りが生まれた。
 ただひとつの体、ただ一つの魂として、この世界にあることの不思議さと、美しさがゆっくりと、目の前で立ち上がってきた。

 一歩一歩、歩く、座ること、立つこと、私たちが日常当たり前のようにやる動作。それができると言うことは、なんとサプライズでビューティフルなことか。どんなに沢山の筋肉、神経を使って、私たちは生きていることか。そしてこの身体の中に、どんなに沢山の人生が、喜びや痛みが、刻み込まれているか。
 ジョシーの身体は今や満身創痍だったが、そのまん中に息づくスピリットが衰えた訳ではなかった。ヨギとしての彼のソウルは、不自由な体の奥に変わらずあった。
 ある日、彼はゆっくりゆっくり、椅子に座りながら言った。
「私の呼吸は変わらない。私は今もずっと変わらないんだよ。」
 彼の中では、元気な時に難しいアーサナを行なっていた時と同じものが流れていた。調和と共に、今身体が表現出来ることの最大限を生きているのだった。

「アーサナとポーズは違うものだ。ポーズはポーズ、説明的な体の形。アーサナはヨガ。アーサナは日常の動作を正しくやるためのもの。なぜって、気持ちいい体になったら口から笑いがこぼれ出る。神様はあなたが喜んで使うためにこの身体を作ったってことが、わかるから。100%身体が使えるようになったら、体は喜ぶ。そのために時間を使ってください。」
 「人生にこれで終わりはないんだ、流れてゆくものなの、それがヨガだよ。」

 私たちは身体ではない、感情でもない、マインドでもない、ラマナ・マハリシをはじめ、多くのスピリチュアルなティーチャー達は口を揃えて言う。私たちの真なる自己はそれらを超え、決して生まれることもなく、死ぬこともない、一なるものだ、と教えている。
 なぜ私たちが身体でないなら、身体に構う必要があるのか?自分の身体にアイデンティファイするなと言いながら、身体を正しく使えるようになりなさいと言うのはどうしてか。
 トイレに行くにも一苦労のジョシーの身体と向き合いながら、私はいつもヨガとは何か、身体とは何かということを繰り返し、考えていた。

 カンニャクマリに来て一週間たったが、チャコちゃんが戻ってくる気配はなかった。その間、夕方に近所をゆっくり散歩する以外、全く外出していない。
修道院では3食おやつまで出るので、特に出かける用事もないし、今のジョシーを一人にしておくのは危ない。インドを旅したことがある人なら分かると思うが、インドにバリアフリーなんて概念はない。道は穴ぼこだらけで危ないし、色んなところに不要な段差がある。
 病院に検査をしに行き、大分良くなってきているが、さらに一週間サポーターをしていなさいと言われた。多少腕が動かせるようになってくると、もうサポーターをするのを嫌がる。それでも、肘のヒビはまだしも、肩がまた脱臼しては大変だから、無理をしないように見張っているのが大変だ。
 なんだかんだ言っても、一日中一人でつきっきりの介護生活はしんどく、チャコチャンにいつ帰ってくるのだと電話で尋ねると、急遽予定が変わって明後日車でジョシーをアレッピーに連れて行くことになったと言われた。
 やれやれ、本当にインド人は何でも急に決めるんだよなあ。でも、全く出歩けないカンニャクマリの生活より、勝手の分かっているアレッピーの生活の方が楽そうだ。
そうと決まったら、急いで荷物をまとめて、アレッピーへ出発だ!

アレッピーの居候生活

 アレッピーのジョシーの妹の家に着くと、二階に寝泊まりしなさいと案内された。カンニャクマリは比較的乾燥していて、風も強く過ごしやすかったが、アレッピーに来ると空気は急にねっとり湿って、ああケーララに来たなあと思う。妹の家はジョシーが友人の建築家と協力して建てたもので、かなり凝った作りなのだ。自分の土地の山から切り出した石を使い、広々と風が抜けるような設計で、屋根裏に木で組んだ吹き抜けのあずま屋のようなスペースがある。これは伝統的なケーララ家屋の造りらしいが、今では珍しく、ジョシーは木造の古い家屋の一部をわざわざ運んで移築したらしい。ドアや、窓枠などの細部の装飾も凝っていて、ジョシー渾身の作なのだ。彼自身もこの家をかなり気にいっていて、「これを自分が作ったなんて信じられないなあ」とよく言っていた。本当にセンスが良く、居心地の良い家なのだが、難点はバス通りに面していて、便利だが日中は結構うるさい。風が抜けるように、屋根と壁の間に隙間があるので、筒抜けなのだ。初めて来た5年前よりもさらに、騒音がひどくなってる気がする。車の量が増えたのだろう。それと蚊が多いこと。

色々と問題があるとはいえ、ジョシーは家族に囲まれて、リラックスした感じがする。修道院も静かでいいが、やっぱりどこかストイックな張り詰めた空気が流れていたから。それに妹のリサマの手料理がおいしいのもうれしかった。この家は、ジョシーもかつてはレストランを経営していたほどだし、チャコちゃんは料理人、食べるものにはうるさい家なのだ。
引き続き、三食おやつ付きの居候生活。
ジョシーもようやくサポーターが取れて、一人で起き上がってトイレにも行けるようになったので、あとは緩く見守って、必要な時に手助けをすれば良い。

この家は街中にあって、気軽に出かけられるが、用がない限り出かけて楽しいところはない。家族も暑い日中にわざわざ外出するな、と私に言う。よく見ると、家族たちも用事がない限りは家でだらだらのんびり過ごしている。都市部では変わってきたとはいえ、ケーララではカフェやレストランでおしゃべりして過ごす文化はなく、家を訪ねるのが主流。訪問客によって、どこまで家の中に入れるかという不文律があって、セールスマンとか、あまり知らない人が来た時に話をするための玄関前のスペース、友達などがちらっと立ち寄った時に通す、玄関ドアを入ってすぐのスペース、改まった訪問のための客間、ご飯を食べさせるためのダイニングがある。屋根裏の吹き抜けの東屋は、弟の飲み友達との団欒スペースに活用されている。そして普段家族はテレビのある小さい居間に集まってのんびりだらだら過ごしているのだっだ。

ここで一番働いているのは、看護師をしている妹さんだ。旦那さんの方は早期退職していて、細々とした家事や病院への送り迎えを手伝っている。早朝に暗いうちから起きてココナッツを削っているのは旦那さんの方。でも、妹の料理が断然美味しいので、結局彼女が主な調理をしている。しかもジョシーが来てからは、彼用のヴェジタリアン料理を作らねばならず、一人忙しそうにカリカリしている。退職してドバイから引き上げて来たばかりの弟は、しばらく料理を作りたくないと言って、妹を手伝う気配はない。

実はケーララはインドでも珍しい母系制度が近代まで残っていた社会なのだ。ヒンドゥー教の中でブラーミンの下部カーストにあたるナイヤールという人々は、代々女性が家や財産を継いできたらしい、それはイギリスの支配によって廃止されたが、今でも女性の地位は高い。私の見る限りでは女性達は社会的地位が高い分、期待される役割も大きい気がする。ここの家のように妹が一家の大黒柱として働き、夫や兄がのんびりしているなんて、北インドではあり得ないのではないだろうか。
 そんなこんなで、一ヶ月近くあまり出歩かずに、食事付きの介護生活をしていると、だんだんと顔も丸くなってきた。特にアレッピーに来てからは、修道院よりも料理が美味しく、家族ももっと食べろとどんどん皿に盛ってくるので、このままでいくと、インド人のようにぽっこり大きいお腹になってしまいそうだ。

 アレッピーに戻り、ジョシーの様子も落ち着いてきたので、私は再びティルバンナーマライへの小旅行を企てた。ジョン・デ・ライターというカナダのスピリチュアル・ティーチャーのセミナーに参加するためだ。
 実は元々、1月末から2月初旬の2週間かけて行われる彼のセミナーに参加できるように、旅のスケジュールを組んでいたのだ。本当なら、セミナー終了後にケーララへ向かうつもりだった。思いがけないジョシーの怪我で予定を切り上げたが、諦め難く、せめて後半1週間でもセミナーに参加することにした。一週間セミナーに出て帰ってくるだけの小旅行だが、居候の介護生活を一ヶ月も続けて来たから、いい気分転換になるはず。

 大きな荷物はアレッピーにおいて、小さいリュックひとつで夜行列車に乗り込んだ。すでに人々は寝台に横たわって寝入っていた。3段のAC寝台の一番上に上がり込んで、ジョシーの妹が作ってくれた、ダルとチャパティのお弁当を広げて食べ、さっさと横になる。
 

 翌日の午前中には再びアルナーチャラ山を拝んでいることになるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?