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近年『笑傲江湖』をうまくドラマにできない理由は?

 人生で大切なものはすべて***から教わった――そういう系統の話は一切取り合わない私ではありますが、武侠ものを理解すると中国への理解度は高まるかもしれない。
 はじめに断っておきますが、今回は『笑傲江湖』ドラマ版そのものについてはそこまで言及しません。なぜならば、2010年代のリメイク版は紹介を知った時点で見る価値がないと判断できたものでして。

 見たくない! 見なくていいッ! Douban(豆瓣)である程度地雷は避けられうだろうに、NHKはなぜ『コウラン伝』を買い付けた!

 東方不敗がヒロインだとか、東方不敗が体にダイナマイトを巻きつけるとか、東方不敗が藍鳳凰と結婚するとか。そういう大胆なアレンジは見たくありません。今は勉強を兼ねて、台湾版原作読み返してますから。アプリ『ソード&ブレイド』も原作に忠実ですからね。

東方不敗の功罪

 まずは東方不敗について考えたい。あまりに有名すぎて、有名作品に同名キャラクターが出てきたほどではあります。なぜそうなったのか? それはなまじ映画『スウォーズマン』で大美人こと林青霞(ブリジット・リン)が名演して当たり役にしたことが大きいのでしょう。

東方不敗=美形

 これは定着してしまった……しかし!
 
 本来、東方不敗は、グロテスクでなければならないはず。これは美醜の問題という単純なものではなく、『笑傲江湖』のテーマに迫ることであったはずなのだ。
 あの作品の舞台は明代です。明代は宦官の弊害が最も著しく、人生で一山当てるために自宮する者が大勢出て社会問題になった。権力のためならば先祖から受け継いだ血を絶やしてもいいのか? そういう問いかけがあったはず。権力欲を第一にしてしまう人間は醜いのだ……東方不敗も例外ではない! そうであったはずなのですが。 
 それが自宮してかえって美しくなったら、なんかこう、ちがうんだよなぁ。しかも映画版は林平之のような悲惨な自宮枠もカットされておりますし。
 容姿は美しくとも、おぞましさは残しておかないと。

 製作当時の香港はじめ中国語圏ならば、原作を知っているからおもしろいアレンジだったとは思いますが。金庸本人はどうかと思っていたそうで。
 東方不敗はなまじ有名になりすぎて、ちょっとおかしくなった。
 はなから「実は美女!」は原作への侮辱であり、そりゃ原作ファンからレビューでタコ殴りにされて相応だと思います。

 邦題が『月下の恋歌 笑傲江湖』になっている時点で嫌な予感しかしない、そんな東方不敗がヒロインの2013年版は許してはならんのではないかと思う。私が指摘するまでもなく、本国でタコ殴りだろうからもう結構です。あの原作のどこが月の下で恋歌を歌う話なんだ!
 2018年版はイケメンですね。自宮ゆえにまっとうな夫婦生活を送れない悲劇を原作では体現する人物もいるのに、藍鳳凰と結婚するというのはやっぱりわけがわからない! そんな東方不敗を演じた丁禹兮はブレイクしてよかったですね。今はもう、東方不敗役は出演歴から焼き消したい思い出かもしれないけど……。

 ちなみに佐藤信弥氏の華流ドラマガイドとも言える『戦乱中国の英雄たち』においては、原作にのみ言及され、2010年代以降のドラマ版は言及されていない。この時点で危険であることは理解できました。良心的だなぁ。

 ちなみにこれと似た迷走例は日本でもあります。『魔界転生』の天草四郎です。原作での天草はラスボス枠ではなく、宮本武蔵が最終決戦に出てきます。それがなまじ映画版が強烈だったために、コミカライズ等では天草が目立ってバランスが崩れてしまうと。せがわまさき版『十』は原作に忠実です。

そもそもテーマが難しい

 金曜の作品で最高傑作ともされ、私も最も好きな『笑傲江湖』ではありますが、実は難解ではあります。
 長いし、登場人物も多いし、組織も複雑。同じ門派なのに対立している者もいるし、間者も潜り込んでいる。裏切りに次ぐ裏切り、自宮に次ぐ自宮。なんて嫌な世界観なんだ……。冷静に考えると勧めにくいし、一体あいつらは何をしているのかとは言いたくもなる。

 同じ明代舞台でも『碧血剣』はタイトルと袁崇煥の遺児・袁承志であることからも、テーマはわかりやすい。愛国心、国のために戦うこと。発表された1956年の香港ならば、日本軍との戦いを思い出す読者も多かったことでしょう。
 そのあとの『射鵰英雄伝』も、主人公である郭靖と楊康の名前からしてわかりやすい。漢族としての愛国心に訴求する内容であることは確かです。

 じゃあ『笑傲江湖』は? 発表時期は1967年。あの文化大革命を目の当たりにしちまった金庸の絶望感はやはりある。
 そんなに中華の伝統ってええんか? 守って戦うのが正しいんか? そういう戸惑いがあると。

 令狐冲の名前からして「空虚、虚しい」という意味。それに対する任盈盈が満たすことにはなっているけど。大いなる空白が名前からして伝わってくる。
 それにこの作品は、最初に出てきて親の仇討ちを目指す、むしろ主人公らしい人物は林平之であって。令狐冲はいきなり揉め事に巻き込まれて、問題児扱いで罵倒されつつ出てくる兄ちゃんです。
 令狐冲は壮大な目標となりえる親の仇討ち、祖国への愛も特にない。この話の世界観では史実準拠ありきで朝廷が腐りきっていて、そんな朝廷に忠義を尽くさんでいいと思える。
 じゃあ自分の所属する崋山派に忠義を尽くすかというと、それもできないほど下劣な展開へ突き進んでゆきます。
 令狐冲は主体的に動くわけではないし、『神鵰俠侶』の楊過のような運命の子という出生でもない。

 むしろ生きているだけで事件に巻き込まれる。巻き込まれた挙句、致命傷を何度も喰らうわ。襲撃されるわ。気づけば失恋しているわ。かなり不幸です。失恋に関しては、大酒飲みのトラブルメーカーである令狐冲よりも、林平之を選ぶ岳霊珊はありだと思えますけどね。林平之がああなるとは想像できませんって!

主人公が目指すものは「自由」だ!

 他の人物が権勢欲やら何やらで道を誤っていくのに対し、令狐冲の欲求はシンプルです。愛する人と暮らし、音楽を奏でて、うまい酒でも飲めたらいいや。どこぞの総帥になるとか、どうでもいいよね。それだけ!

 そんな令狐冲と同系統の、誰かと好きな音楽を楽しめたらいいと願う人物も複数出てきております。そんな連中はことごとく惨殺されてゆくのです……そんなシンプルな願すら踏み躙られてしまい、困難なあたりに、やっぱり文革の暗い影は見て取れます。
 好きなことをする。 
 言いたいことを発言する。
 ただ、人として、自分らしく生きる!

 そんな素朴な願いすら、権勢欲を振り回す相手によって潰されてゆく。令狐冲は自由気ままに生きると宣言するけれども、それすらできないって究極の悪じゃなかろうか? そんな金庸の誠実な問いかけを感じるのです。金庸は超絶技巧を駆使しているので、これも明代の状況を反映しているという解釈もできる。あの時代も、言論弾圧が厳しかったものです。
 皮肉にも2021年、このテーマは再燃している。今、香港には無数の令狐冲がいるのだと思うと辛い。

 そういう自由を求める人物の不自由と。権力欲のためならば偽君子になる連中と。それをどう映像化するかというと、そりゃ難しいと思いますよ。
 金庸がそこまで意図したかどうかはわからないけれども、これは筆を使った高度な罠という気もする。ただ武侠ものを鑑賞していただけのはずが、心の中に自由を求める種が蒔かれるとしたら、それはやはり偉業です。

気がつけばみんな江湖で生きているから、武侠を

 なぜ、『笑傲江湖』について考えているのか? その理由のひとつに、石川禎浩氏『中国共産党、その百年』を読んだこともあげられます。
 最近の中国関連情報や報道の汚染には疲れ果てております。
 中国人はそもそもが邪悪! 思想も、文学も、何もかもが悪い! そういう人種差別としか言いようがない意見が罷り通る。日本の極右メディアのみならず、『Newsweek』のような英語圏の報道もひどいものがあります。
 それにしてもああいうものを書き、手の取り、そのうえで「台湾加油!」だの書き、香港のことを支持する人々は気が付かないのでしょうか? 中国語圏の文化思想まで貶しておいて、一体何をしているのか? そんなことだから台湾系の道教の廟を、邪教の巣窟のようにSNSに投稿するんですよ! 唐鳳氏だって愛読書に『老子』はじめ古典をあげておりますからね。彼女一人が大天才というだけでなく、その背後の社会や素養も考えましょうよ。
 とりあえず挨拶がわりに中国、韓国、儒教をバカにして話の枕にする人とは、同じ空気も吸いたくありませんな……。

 そう疲れ果てていたもので、バイアスがない冷静な論評である『中国共産党、その百年』は心に沁みました。濁った水に飽きていて、やっと澄んだ水を飲んだような気持ちにすらなった。
 そんな澄み切った気持ちで読んでいると、初期の中国共産党や毛沢東からは武侠を感じました。生きていくことが困難な時代に、集まって生きていこうとする。困難の中でより結託は強くなってゆく。義兄弟として密着して生きているけれど、ひとたび内部構想になると十倍返しも辞さないことに……。

 中国共産党と日本共産党は不倶戴天であることも思い出し、あれは崋山派同士が気宗流と剣宗流で争ったようなものだと思いました。なまじ同じ流派だけに「ほんとうの教えはこっちだ!」と激烈に争うわけだ。はたから見れば理解できないかもしれないけど、「根本にあった教えを誤解している! この偽君子め!」とヒートアップするのは理由もあるし、なまじ同じ理想を共有していただけに、憎悪は強烈でしょう。
 そう武侠を踏まえると、わかりやすく思えることは多々あった。

 毛沢東のカリスマは理解できないとか。洗脳とか。そういう論調に持っていかれそうだけれども、武侠を踏まえたら理解できるのではないかとも思えてきました。武侠小説に出てきそうなカリスマ性、英雄としての振る舞い、才能、ユーモア、そしてそれを飾るだけの知識と文才がある。そんなカリスマが変貌してしまうところも含めて、それもやはり、岳不群のような武侠らしさでもあるのだと。

 毛沢東がワンアンドオンリーなのは、創業の英雄であることも大きな要素ではある。他の誰が毛沢東を目指そうとしても、どうしたって無理はあるし、そもそもなれると信じている人もいないのではないかと思いますが。そのカリスマにあやかって何かやろうとすることはあっても、成り代わることはそれこそ新体制でも作り上げなければ無理だろうと。そんなことを武侠ものを読み返ししつつ考えてしまいます。だから、習近平と毛沢東混同論には慎重になりたい。

 そんな最近の中国叩きは、中国人はそれこそ根本からして異なるものと言いたげですけれども。トランプ現象と文化大革命の共通点あたりを見出してみるのはどうでしょう?
 知識を持つエリートに対する反乱。カリスマがあって庶民的で、チョイ悪カリスマオヤジを持ち上げたくなる心理。毛沢東は建国、トランプはせいぜいWWEはじめテレビパフォーマンスくらい。そんな圧倒的な差はあるけれども、根本は似ているかもしれない。
 
 敵を知り己を知れば百戦危うからず――ということを踏まえれば、中国はずっと西洋のことを学ばねばならなかった一方で、西側は逆といえる。中国人の思想なんて学んでも無意味とまでは言い切らないにせよ、中国が西洋思想を学ぶほどの情熱でそうしてきたとは思えないのです。個人単位はさておき、集団単位ではそうでない。
 そこまで考えていってやっぱり『笑傲江湖』は難解で厄介じゃないかと思えてきました。理解が浅い側からすれば、中国人なんてそもそも自由なんてはなからわかってないし、求めていないんじゃないの? そういう偏見に、自由を求めて苦労をしまくる令狐冲が大人気ということは、ピンとこないかもしれないじゃないですか!

『笑傲江湖』は色褪せない不朽の名作だ

 『笑傲江湖』って、自由を求める心が普遍的だからこそ、金曜作品の中でも色褪せないのかもしれない。自由を求める気持ちは誰にもある。酒飲んで自由に物を言って生きていけりゃいいのに、それすらできねえってどういうこと! 弱者を救ってみんなハッピーでいたいと思うだけで、誤解を招くってなんなんだよ! まあこっちも迂闊だったけど!
 権力が多少あれば楽になるかな? そう思っていたらかえってめんどくせえ事態に陥るんだが……。
 安寧な暮らしをしたいだけなのに、どんだけ令狐冲がややこしいことになるか? 令狐冲は国を救うとか、王朝の腐敗をなんとかしようとか、そんな気持ちはさらさらない。それでも自由を求めて生きていく姿だからこそ普遍的だし、魅力があると思えてくるのです。
 そんな令狐冲の目線になるだけでなく、権力に取り憑かれたあまり外道の極みに落ちてゆく、岳不群のことも考えたい。あんな頼りになる人が権力欲で最悪の結果になってもめげない! 権力に酔いしれた群衆がわけわからんことに及んでも人間はそういうものだと認識すること。

 令狐冲が中国語圏で大人気だということをもう一度じっくり考えたい。コロナのロックダウンを、強権的だのなんだの言いたがりますけどね。武侠に出てくる幇や門派のように、互いに救う協力があったと考えることとか。そういう助け合いの精神を考えることも大事だと思いますよ。

武侠が日本に来ると何が起こるのか?

 武侠ものは日本で受け入れられない、とは言われます。どうなんでしょうね。

 ただ、これは指摘しておきたい。山田風太郎は『金瓶梅』をミステリに翻案した『妖異金瓶梅』のあと、『水滸伝』の日本版として『忍法帖』を書いたことを。同じことを滝沢馬琴もしていて、これは『南総里見八犬伝』になった。
 その是非はさておき、日本に来ると江湖(民衆世界)の話だったものが、廟堂(政治、権力)側の話に転換されてしまうこと。『八犬伝』も主君への忠誠心が根底にある。『忍法帖』は権力の捨て駒である忍者同士が殺し合う世界になってしまう。武侠に近い『忍法帖』は、仕官をしない自由人・柳生十兵衛主人公のもののようにあるとはいえ、少ない。
 このことはずっと私を悩ませてきたことで、『三国志演義』の人気は堅調でも、『水滸伝』はそうでもないあたりとも踏まえて色々考えてしまうのです。
 日本では江湖の力が弱いということだろうか?

 改めて武侠について考えていくと、日本は自分たちが思いたいほど自由を重んじていないのではないかと思えてくる。空気読んでばっかりでしょ? 2000年代、大手掲示板で自由になったと思いましたか? でもその掲示板には、愚劣な中韓ヘイトが流入していた。2020年にもなって、そのころのスラングを使い、中韓を小馬鹿にし、wwwとやたらと言い募るネット論客にはもう飽きました。自発的にそういうヘイトを冷笑して垂れ流していると思いたいのかもしれないけれど、何かに操られている可能性がないと断言できますか? 当時にあった空気をまだ引きずっているだけではありませんか?

 フェミガー! 野党ガー! 表現の自由を尊重します! 
 SNSであの界隈が叫ぶ文句なんて、あんなもん、『三国志演義』で黄巾党が叫んでいる……

「蒼天すでに死す 黄天まさに立つべし 歳は甲子にありて 天下大吉ならん」

 こういうものと大差がないのでは? あ、むしろこっちか。

「造反有理! 革命無罪」

 そういう冷笑ムーブはそろそろ終わるどころか、墓穴を掘ることになるでしょうね。

 ネット論客の話はクサクサするからやめておいて、と。
 中国文学の歴史と伝統には、言論の自由を断固維持するために、いろいろ理屈をこねくり回してきたこともあるのだと改めて言いたい。金庸はその様を武侠に昇華しているけれども、政治と自由をめぐって戦うということは、文人がしてきたことである。

 ゆえに『笑傲江湖』は、言論の息が詰まり、検索エンジンの結果に人が流されてしまう2020年代ではうまく扱えないのかもしれない。もっと自由にのびのびと、原作精神をとりもどすところまでくれば、傑作になると信じています。自由を求める人間の心に限りはないから、時代が変わるごとに新しい可能性が見出せていけると思うのです。

 『戦乱中国の英雄たち』によれば、『陳情令』はボーイズラブとしての要素に、『笑傲江湖』からのオマージュが忍ばせてあるとか。これなぞまさに無限の可能性があると示すことだと思えるのです!

 今よりも、もっと自由な表現ができるようになれば、そのたび『笑傲江湖』は蘇る! ただ、東方不敗をヒロインにしたり、ダイナマイトで戦わせる路線は自由と暴走の混同なので、そういう2013年版や2018年版のような展開はやめてくださいね。まっとうな発想のもと、『笑傲江湖』がドラマになる時を信じています!

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