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勝田文・山田風太郎『風太郎不戦日記』3(完)

 昭和20年も暮れようとする最終巻。
 2巻で敗戦を味わい、そのあとの四ヶ月をどう締め括るか?

疲れた顔の日本人

 1巻よりも、2巻よりも、表紙の時点で何かがちがう。気が抜けたような虚な目で前を向いている風太郎。

 これは原作からもそう。漫画版のタイトルにしても「不戦」の二文字を落とさなかったことには意義があると思います。戦うことなく傍観者として生き延びた。そのことが淡々として生きる風太郎にずっしりと突き刺さっているのです。

 飯田駅でみかけた帰還兵士が、敗戦後の悲惨さを見せてきます。やっと帰還したというのに、出迎える駅員も、周囲の人間も、むしろ冷たい目を向けている。大量の荷物を持っているものだから、きっと軍隊からもらえたと邪推されているのです。
 終戦でひっくりかえった。それまではお国のために軍隊がリソースを奪うことを容認していたけれども、それが嫉妬となって突き刺さる。
 駅にいる人も。電車の中の人も。軍部をここにきて叩き始めた新聞の論調も。何もかも疲れて貧相だと風太郎は書いている。もともとそうだと、同情的なアメリカ人の見解以上に痛烈に書いている。そしてこの風太郎の実感を裏打ちするような作画がすごい。
 帰還兵も、電車の乗客も。みんな疲れている。そしてちょっとユーモラス。これはすごいと思った。戦争を描いたテレビを見て、戦中派はみんなこんな綺麗な顔をしていないと嘆いていたと言います。その意味がわかる気がする。
 みぃんな疲れて、疲れ切っていたのだろうと。でもちょっと抜けていて。
 京都に立ち寄り、一人きりで物乞いをする老婆にパンを与えつつ、風太郎はくやしさを感じる。空襲でここは焼けなかった! 遊び場として残しやがった。くそっ! 何もかもがくやしくてただただ惨めなのです。

 そしてこれがまさに終戦。鬼畜米英の実像を見ることになる風太郎たち。鉄砲をぶら下げ、チューインガムを噛んでいる。動作はキビキビとして。そしてゲートルを履いていない! あのゲートルは何だったのか……そうしみじみ思う風太郎は、よくぞここを取り上げたと思います。
 根性論、惰性で、意味もない手間暇をかける日本人性よ。
 
 そして作家としての山田風太郎の原点も見えてきます。我が子が戦死した伯母の手紙を読み、この母の声をきけと憤る気持ち。

 吾生きてあり。されど友は多く死にたり――。

 これこそが、彼の作品に通底するテーマではないかと思えるのです。そう書く風太郎の姿が絵になってほんとうによかったと思えます。

消えゆく日本精神と、生きている善男善女

 風太郎は自分の気持ちを書くことで出していたのか、友人との会話はそっけない。祖国に誇りを持つのはいいが、神州不滅なんてことに惑わされていたから敗けたんじゃないか? そうキッパリ言い切るところは、いかにも彼らしいのです。かといって、民主主義のバスに乗り換えるわけでもない。
 民主主義も教唆主義も知らない。人間なんて愚かだ。そう言い切るニヒルな性格になります。これは風太郎作品で時折出てくる思想で、「人間なんてバカだから殺しまくって正解だ」みたいなセリフがあるんですよね。悪役のものですけれども。

 風太郎の日記は市井の声をよくすくいとっている。茶屋のおばあさんが天皇がマッカーサーと映った写真がかわいそうだという。これぞある意味敗戦ということかもしれない。おばあさんには悪意はない。だからこそ刺さる。そういう場面をうまく選んでいます。

 日本人って、善男善女だらけなんじゃないのか? そう思いたくもなる。
 疎開先から帰る前に、演劇をして群がった人々とか。ここで絵心のある風太郎はポスター担当です。そうそう、彼は絵が上手です。
 米兵に群がる人々もまさしくそう。日本人よりも余裕があって、しゃんとしていて、栄養状態がいいとパッと見てわかる。ハーシーチョコレートを売る顔を見ているだけで、胸がザワザワしました。サンキューと笑う日本人。ヘラヘラとありがたがっているおじさん。善男善女を見る風太郎の諦念が伝わってきます。でもそれでいいんじゃないか? 復員した父の軍帽で遊ぶ子をみればそう思えるけれど。
 復讐を胸に抱く自分たちはおかしいのか? きっとそうだろう。
 もう自分たちは時代遅れとなるんだ。二十歳そこそこの青年がそう自嘲気味に言う時代の凄まじさよ。風太郎はそういう無念を作品にぶつけ続けていたとも思えてきます。
 『魔界転生』の転生衆なんて、そんな時代遅れの復活劇みたいでもある。

生きることしか考えられない虚しさ

 東京に戻り、風太郎は米兵と話す若い女性を見ます。そのあと無言で通り過ぎてゆく風太郎。何気ないコマではある。しかしこのときの気持ちが、彼の初期ミステリから一貫して続いていく何かの情念にはなっていると思えます。
 彼女らも愛を誓って見送った兵士がいたかもしれない。だからといって彼女らを責めるわけにもいかないけれども、そんな愛を信じて死んでいった兵士がいたとすれば如何……。そんな情念です。

 そして下宿の主人である高須さんと再会! 能天気に「フルーツパーラーで一山当てるぞー!」という高須さんは悪い人では決してない。風太郎を迎えてくれる。家族と縁が薄い風太郎にとってありがたい人だ。

 このあたりから、風太郎の罪悪感が理解できる場面へ。駅ではバタバタと人が餓死して死んでゆく。当たり前のように死体が転がる中を歩くしかない。
 そんなことよりも、生きていくだけで精一杯。布団がないから寒くて寝られないとか。そういうことを気にしているほかない。日常に死と喪失が入り込んでいる。布団はないけれど下宿も食事にも欠く友人よりはまだしもマシ。
 ただものだけでない喪失もある。米兵の残飯を拾い歩く日本人は何かを失っているような……。でも民衆は責められない。日本人はひとしく無責任だ。優しいのか、突き放しているのか、わからない見方がそこにある。
 生きるだけで精一杯になったら、世界になんかついていけない。何も考えられない。そんな日々です。

天皇制を問いかけ、騙してきたものは何か考え

 食べ物の値段を黙々と記す中、バスの乗客である老婆のことばも記録されています。兵隊はトクだといい、米兵は親切だという。よくもまあ騙してくれたものですなあ――これぞまさに民衆の声だと記録しています。この老婆は米兵のレディーファーストについても語る。日本男児はどうしようもない……。これではどうしたって戦争は勝てないと“民衆の声“がいう。これぞ完敗というところです。

 さらに打ちのめされるのは、梨本宮の言い分。新聞で読み、その情けなさに「はあ?」と声が漏れる。彼の中で天皇制への疑念が芽生えた。共産主義はしらんと言い切るだけに、理論だって組み立てたものではない。心の底から感じた天皇制への疑念でしょう。ゆえになんとも生々しい。
 それでも梨本宮の逮捕反対署名はする。それはそれ、これはこれだと。そして絶望しつつ、日本人に天皇制は必要だと映画館でまた思い返すのです。
 それでも天皇制に疑念が生じる。割れた心は戻らない。
 信じていた……信じていたかった……。その無念がそこにはあります。

 そんな熱い心と対照的に冷たい心は、12、13歳の戦災孤児への態度。救ってほしいと訴える幼い声の方を見ることができない。これでは人の心は冷酷なものになると思いつつ、風太郎だって何もできないのです。

いまだすべてを信じず

 戦争が終わって、年が暮れる。そこに幸せはあるかというと、これがなんとも複雑です。
 生きている。でも自分は傍観者だった。日本人が負ける理由もわかる。くそっ! 米兵は立派だ。ゲートル。餓死者。戦災孤児。米兵と楽しそうに話す人々、とりわけ若い女。

 そんな自分の日記を読み返す作家・山田風太郎が、初回以来登場します。タバコをふかし、小鳥を眺め、犬を飼っている。残飯で「バカ」と書き、そこに鳥が群がる姿を見るという話は、風太郎らしいので是非とも入れて欲しかったもの。実現して感無量です。
 でも、笑えるだけでもない。
 あのころは鳥に食べ物をやるなんて考えられなかった。そう作家は思ってしまう。戦災孤児にすら、食べ物を与えられませんでした。
 そして彼は日記を見返し、自重しつつ、今見ているのがほんとうの風景なのかと疑ってしまう。昭和20年の師走に戻り、ドタバタと過ごす風太郎。いや、まだ誠也。故郷の自然の中で歩く風太郎の背景に、兵士の姿が重なります。

 運命の歳が暮れゆく日、彼はこう記します。

 いまだすべてを信じず――。

 それは昭和20年だけだったか? 山田風太郎の作風はこれに尽きるのではないか? 彼という作家は、作品を通して、なぜ自分は生きていて、友は死んでしまったのか、そのことを問いかけ続けていたのではないか? そう原作を読んで感じたことを思い出すページです。ラストシーンでそのことが端的に詰まっていて、圧巻でした。

言葉を失うほどの傑作だった

 傑作というのは、ただ褒めるだけでなく。どうしてこんなものができるのかと八つ当たりしたくなるほどのものだと思えます。
 『バジリスク』はじめ、せがわまさき先生の画による山田風太郎作品もすばらしかったけれども。日記や幕末以降は、この絵がぴったりかもしれない。

 勝田先生の作品を手に取るのはこれが初めてです。
 戦後の疲れ切った顔。餓死者。戦災孤児。物乞いをする老婆。そんな姿をこうも描き切るとは! 米兵の姿にも漫画の力を感じました。B29は恐ろしいけれど、その中にいたであろう米兵は善良である。そして栄養状態ははるかに日本人よりいい。そこまで描かれている。実写ドラマ以上に戦後を再現できる漫画の力を感じました。でも、それでいて、実写になったことも想像しちゃったりしてね。

 日記を漫画化するうえで、選ぶところも素晴らしい。山田風太郎という作家の根源的な要素が詰まっています。不信感。純情さ。照れ。皮肉ぽいところ。不信感の中に沈み込んでゆくようで、揺れる心理がよくわかります。 
 原作を読んだときに感じたことを思い出す。日記を読まねば、彼の作品のことは理解できないのではないかと。漫画になって、手に取りやすくなって、こんな素晴らしいことはないと思えるのです。

 そして勝田文先生をこの企画に選んだ人は、紛れもなく素晴らしい。いや、勝田先生は言うに及ばず。けれども伯楽は常にはあらず、こういう逸材を引っ張ってきた慧眼に感服するばかりです。
 絵がね、ともかくいいんですよ。その人物の精神力まで宿っている。風太郎と友人の対話なんてエネルギーがほとばしってますから。

 かれらにも予定なり構想はあるだろうし、ずっと山田風太郎ばかり描き続けるわけにもいかないだろうけど。想像してしまいます。『魔群の通過』を、勝田先生が漫画にしたらどうなるかと。虚しさ、不信感、普通の人が“魔群”になるおぞましさ。勝田先生ならできるのではないか? 幕末明治以降ならば最善の選択ではないかと思った次第です。

 ちなみにちくま文庫版の山田風太郎は、忍法帖表紙が山本タカト氏で、南伸坊氏。やはり、戦国時代ものはせがわまさき先生が最善で、幕末明治以降は勝田文氏が最善ではないかと痛感する次第。そこを見抜いた方はやはり慧眼ですし、それに応じた勝田先生はすごい。
 こんな理想的な原作付き漫画はそうそうない。紛れもなく傑作といえる作品の、堂々たる完結です。


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