誕生日に想うこと

誰に向けてこれを書くのかあんまりわかってないけどとりあえず書こうかな。

うみさん誕生日おめでとう。21歳!はやいね。わたしが好きになったのは18歳のうみさんだったので、時の流れを感じます。まさか3回もうみ担としてお祝いできるとは思っていませんでした。それもすべて今のうみさんのおかげだと思っています。ありがとうね。

最近ずっと、というかこの1年間かな。ハタチのうみさんについて行くのに必死で、わたしが彼の何に惹かれて好きになったのかがわからない時間を過ごしていました。でも現場でみるうみさんのことちゃんと好きだったので、毎回新鮮に「あっ…ちゃんと好きなんだ」って自分にビックリしていて。その理由は、どんな時もステージの上でこんぺいとうを弾けさせるうみさんが居てくれたことと、大好きなTravisJapanのメンバーが居てくれたからだと思います。

うみさんへの好きが1番わからなくなったのが、昨年の夏だった。好きなのに、届かないし。好きだけど、好きになった頃の面影を感じられないし。顔とダンス以外好きじゃないじゃん!って正直思っていて。実際、顔もちょっと見飽きたし(笑)色々期待していたから哀しかったのもありました。うみ担としてのわたしはね。でもそれを救ってくれたのがTravisJapanだった。ダンスが好き、演出が好き、メンバーが好き以外に必要なことってあるのか?って考えたときに、普通なら無理だけどトラジャレベルのものならば充分なんじゃないかと思った。まだ見たい、うみさんへの好きが薄れても、TravisJapanが好きだから、わたしはおたくをやろうと決めました。

そんなTravisJapanのことを……言葉を選ばずにいうと、好きじゃなくなった。好きじゃなくなったのは、増員したときでした。そもそも6人になった時点でポッカリと穴があいていて、そこからどんどん真実味を帯びて行く朝日の退所の噂に対してとにかく必死で、何が好きとか何を信じるとかもうそんなこと考えられる余裕もなくて(笑)祈るように手紙を書いて、友達に郵送して預けてもらって、わたしも行った日は毎回昼夜と預けて。おたくが頑張って止められるような決断ならしていないんだろうから無駄だとはわかっていたけど、足掻くことをやめられなくて。怖くて怖くて怖くてしょうがなかった。でもそれは現実になってしまったし、次に見たTravisJapanは5人だった。わたしの好きなTravisJapanの面影は、正直もうなかったと思う。だけどABC座が本当に最高の舞台で、傷ついた心の全てを満たしてくれる楽しさを味わえる最高のシャブだった。だからまだいける、5人のこと愛せる、うみさんのこと大好きだから大丈夫!!!って思えて。千穐楽で彼の目がキラキラキラキラ輝いていて、わたしの心もキラキラキラキラした。一時的なクスリとしては最高の舞台だったと思う。あれがなければわたしはいまこうやってうみ担として書けていないかもしれない。5人を愛する理由をくれる舞台だった。

だからこそ増員したとき、あーもうだめだと、縋り付いていた好きの理由が全て壊れてしまったと思った。そこからはもう、気持ちが盛り上がることもなくて。ハピアイも楽しかったけど、どこかハマりきれなかった。もううみ担でいる理由に、「TravisJapanが好きだから」がなくなってしまったからこそ、何でいま帝国劇場にいるのだろう、とすら思った。「うみさん以外にかっこいいと思える人がいないから。」これがしっくりきた。確かに彼はかっこいい。現場でみる彼はかっこいいし可愛いし、彼以外は考えられない。だけど、そんな消去法みたいな気持ちでおたくでいていいのかわからなかった。好きだよ。好きだけど、好きになった頃の好きじゃない。薄くなったわけじゃないけど、好きの色や形が変わってしまった。これでわたしは満足なの?わざわざお給料のほとんどを注ぎ込むほどの好きなの?それは意地じゃないの?ずっとモヤモヤしていた。

横浜アリーナの単独公演、行こうか行かないかものすごく迷った。結果的に言うと、行って良かった。本当に行って良かった。TravisJapanのためにおたくを続けよう、と、思えるほどの気持ちは正直ないけれど(たぶんそれが異常に凄かったんだと今になって思う)拒否反応がなくなったから。それだけで私にとっては充分だった。個人を好きでいる上で、箱を好きだと個人への気持ちが盛り上がるのと同じように、箱を嫌いだと個人を好きでいるのも難しくなる。別物と捉えられないからこそ、うみさんを好きになるのに今の箱が心の障害じゃなくなった。それが嬉しかった。好きになるのはこれからで良い。うみさんが、過去を過去にしなかったから。それだけで私はもう、良かった。

ハタチのうみさんを好きでいるのに箱がもたらす影響がものすごく大きかったから、21歳のうみさんは、ちゃんと個人で向き合えたらいいな、と思う。私自身も変わりたい。


エターナル・サンシャインという映画がある。

喧嘩をした次の日に、彼女が彼氏との記憶を消してしまい、そのショックで彼氏も彼女との記憶を消そうとする中でたくさんの思い出を振り返りながら、忘れたくない記憶を消されないように脳内を逃走するお話だ。結果的に記憶は削除されてしまうけれど、もう一度ふたりは出逢って、お互いがお互いに記憶を消した相手だということを知ってもなお、次はそれを受けとめあっていこうね、とやり直す。ざっくり言うとこんな話。この映画のメッセージをどう受け取るかは人それぞれだと思うけれど、私は、どんなに腹が立っても相手の存在が消したい記憶になっても、人は不完全だし合う合わないがあるのだから、それを認め合うことが大事なんじゃないか、とこの映画を見て考えた。もちろん運命とか縁とか、そういうことを信じる映画でもあると思うけれど、私が響いたのはそこではなくて。最後の、「それでもいいよ」だった。

ジョエル「君の嫌いなところなんて、一つも見つけられない」 クレメンタイン「でも、いつかは見つけるわ。何か嫌になることを思いつくに決まってる。それにたぶん私もあなたに飽きて、どうすればいいのか分からなくなるんだわ。いつもそうだもの。」 ジョエル「それでもいいよ。」

私がハタチのうみさんを受け入れられなかったのは、変わり続けるうみさんをさみしく思っていたから。好きになった頃のままでいてくれないことに腹が立ったから。人としてガキだとか、男として最低だとか、そういうことは好きを目の前にするとなんの効力もなくて。倫理観に基づいた最低や最悪は、好きでいくらでも上塗りできる。それぐらい好きだから。でも変わってしまう寂しさからくる苛立ちは、好きでは上塗りできない。そこに気付くまでに1年以上もかかってしまった。

変化に対する苛立ちや哀しみ、寂しさに勝つためにはどうしたらよいのだろう?それは、エターナル・サンシャインをみて気づけたような気がする。4年ほど前に一度見た映画を、急に観たくなったのは、不思議な直感だと思う。

彼は私より2つ年下で、ちょうど可愛い年齢だ。2つ年下というのは、3年生のときの1年生で、いつも可愛くてフレッシュで愛しい。だけどもうハタチを超えると2歳差というのはほぼ同世代の扱いになる。一定のラインを超えるとあとは年齢ではなく、経験値や振る舞いで大人かどうかを判断されるように感じる。

私にとってうみさんは可愛い2歳年下のアイドルだった。だけどいつのまにか、うみさんは私よりずっと大人になっていた。私はそれについて行けず、ずっと寂しかった。知らない人になっていく、好きなうみさんじゃなくなっていく。そうじゃない。それもあるけど、それを相手のせいにするのは間違っていて。大事なのは、自分が変わること。自分も大人になれば良い。ずっと彼の年上であり続けられる自分に、彼のことを可愛いくて愛しいと思える余裕を持てる人間になればいい。「それでも良いよ」と言える自分であれば良い。好きでいるっていうのは難しくて、変わらないものなどないのだから、それに対してどう変化していくかが重要なのだ、と、ようやく気づけた。

私も私で、うみさんというアイドルに幸せの依存をしていてはいけない。そうしていると、私はうみさんのことを好きでいられなくなる。だから、私もちゃんと22歳として幸せになる努力をする。仕事も頑張るし、恋愛もするし、ちゃんと自分磨きもする。料理も…ってこんなにできるかな(笑)でも、そうやって自分を自分でシャンとさせる理由に彼がいて、だから彼のことを好きでいれて、ずっと可愛くて愛しくてかっこよくて私の最高の、自慢の!自担でいてくれれば嬉しい。そんな風に、21歳になる彼に対して私は思います。これからもたぶん何度も文句を言うし腹立つこともあるだろうけど、その辺は好きで上書きさせてください。アップデートさせてください。よろしくお願いします。

中村海人くん、お誕生日おめでとう。ステージに立つあなたのことが大好きです。いつも支えられています。どうか貴方の選択が、人生が、ステージの上で咲き続けますように。負けないように私もがんばります!以上!長ったらしい宣言でした!!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?